御所ヶ谷神籠石は標高二〇〇メートル前後の尾根線の主として北斜面に広がる遺跡である。城内最高所は南東端のホトギ山(御所ヶ岳)で、標高二四六・九メートル。最も低い位置にある西門は標高六五メートルで比高差はかなり大きい。外郭線は約三キロメートルで大きな二つの谷を城内に取り込んだ典型的な包谷式山城である。
尾根稜線よりやや下がったところに列石と土塁からなる城壁を巡らし、谷には排水機能を備えた石塁を築く。土塁はおおむねは幅七メートル、高さは城外側で約五メートル、傾斜七〇から八〇度で立ち上がる切り立った城壁が復元できる。この土塁の囲繞形態を巨視的に見ると、意図的に屈曲させながら連ねるプランが認められる。
外郭線には七ヵ所の城門跡が確認されており、谷間に築かれる大規模なものと稜線に設けられた小型のものに分けられる。大規模な城門は、北向きに開く二つの谷にそれぞれ築かれた中門(なかのもん)と西門(にしのもん)である。
中門は谷を三〇メートルほど石塁で塞(ふさ)ぎ、東側に幅約六メートルの城門を設けている。現在、城門部分に渓流が流れ、門礎などは不明である。城門の西側の石塁は高さは約七メートル。二段に築造された石塁の下段に通水用の石樋を突出させた構造は、国内の朝鮮式山城の城門の中では異彩をはなっている。石積みは横長石材をレンガを積むように目地をずらしながら積み上げる精巧な布積(ぬのづみ)を基本とするが、石塁上部に重箱積の箇所があり、この部分は積み直された可能性がある。
西門は、幅四〇メートルほどの谷を石塁で遮断した遺構が残る。石塁の中央部分の崩壊が著しく、城門の規模、構造は不明である。西門の石塁は中門と異なり、段築がなく、石積の手法も立方体形の石材を多用する重箱積である。また積石の一部に列石石材の転用が見られる。
城の防御正面にあたるこの二つの城門は、攻撃側と防御側との比高差が大きく、また城門の左右の土塁が城外に張り出し、城門に迫る敵兵に対して、左右から弓矢などでの攻撃が効果的に行えるように設計されている。
稜線上に設けられた他の城門は、いずれも門道の幅は三~四メートル程度である。
城内中央を南北に伸びる尾根の削平地に、三間×四間の総柱建物一棟分の礎石がある。江戸時代には景行天皇の行宮跡と考えられ、礎石の中央に景行天皇を祀る石祠が建てられている。礎石には西門と同じく神籠石の列石を転用したものが認められる。この建物の築造時期は不明だが、周辺から出土する須恵器片や土師器片はこの建物の築造時期が古代まで遡(さかのぼ)る可能性を示唆(しさ)している。
礎石のある丘陵の西側の谷には、通称、馬立場(うまたてば)と呼ばれる割石積の石塁遺構がある。類似する石積が中門背面にも見られることから、古代山城にともなう遺構であると考えられる。石塁は渓流を堰(せ)き止めるように設けられていることから、貯水池の堤とも考えられる。
また、中門から西側外郭線にかけて城内にテラス状削平地と断続的な列石線が続く。発掘調査の結果これが未完成の土塁跡であることが確認されている。