神籠石の外郭線約三キロメートルのうち、行橋市域に属する一・一キロメートルを対象としたトレンチ調査が行われ、版築(はんちく)土塁の存在が確認された。ただし第二東門の南東の急傾斜面からホトギ山山頂付近にかけては、版築土塁は未確認である。ホトギ山の南斜面も含めてこの一帯は地形急峻な天然の要害で、防御上あえて土塁を構築する必要はなかったものと思われる。こうした土塁未築部分も含めて御所ヶ谷神籠石の外郭線は、全長約三キロートルである。
御所ヶ谷神籠石の土塁は外側にだけ壁を持ち、内側は山の斜面に托す内托(ないたく)構造が主体であるが、城門部周辺などに、内側にも低い壁を持つ夾築(きょうちく)構造の部分も見られる。また、土塁前面基底部に切石列石を連ねる典型的な神籠石の土塁のほかに、列石を用いずに版築土塁を築造した部分もあり、場所によって構造に違いがある。
中門から第二東門までの土塁に設けたA1からA9の九本のトレンチでは、緻密な版築土塁と版築で被覆された切石列石、版築工事用の柱穴群が検出された。
中門東側のA2トレンチでは、基底幅七・三メートル、高さ約四・八メートルの土塁が確認された。地山を削り落として整形した後、列石が配置され、列石前面に版築状に築き固められたテラスが作られる。このテラス部分に、土塁築造工事の支柱が立てられ、版築の堰板(せきいた)が取り付けられたと考えられる。御所ヶ谷神籠石の場合土塁工事後、列石は版築土に覆われて見えなくなる。列石側の支柱も版築土塁に埋め込まれたまま残されており、この柱を土塁上に突出させ姫垣の支柱として利用した可能性もある。柱穴は前面ばかりでなく後方の土塁中からも検出されているが、この柱は前面の支柱に連結され版築の土圧で柱が傾くことを防ぐためのものであろう。
版築の積土の厚さは三センチメートルから一〇センチメートルで、山の地盤である花崗岩バイラン土が用いられている。この地点の土塁は背面に割石を積み上げた石組が見られる。
東門の西側の土塁に設けたA7トレンチでは、幅七・二メートル、高さ四・八メートルの版築土塁が確認された。A2トレンチ同様、列石は版築土塁中より検出されている。土塁は内托式だが、背後の地山を削平して、通路的空間を設けている。A2トレンチでみられたように列石前面と、背面近くの土塁内から柱穴が検出された。
中門の東側外郭土塁では九州のほかの神籠石式山城の様相と異なり、列石が版築土塁に被覆されていたことがわかった。
御所ヶ谷では神籠石としては異例の列石のない土塁が確認されている。西門の西側のB1トレンチに見られる土塁は、幅七・四メートル、高さ四・五メートルの内託構造の版築土塁で版築の積土の種類や厚さはA2トレンチなどに類似する。しかし土塁の前面基底部に堰板の支柱と考えられる一本の柱痕とその掘方が検出されたが、神籠石の特徴である列石は認められなかった。このトレンチの西側や、西門の東側の土塁でも列石のない土塁が確認され、外郭線が北へ大きく張り出す中門から第二西門の南側までの土塁には列石が用いられていない可能性が高い。これまで北部九州から山口県の神籠石式山城は列石の存在を前提として論じていただけに、御所ヶ谷におけるこうした列石のない土塁の存在の投げかける問題は大きい。
外郭線の調査が一段落した平成七年から、城内の北西部分に分布する列石群の調査に取り組んだ。分布調査により列石群は中門から西側外郭線にむけて、断続的ながら三〇〇メートルにわたりほぼ東西に連なっていることがわかった。これらの切石はテラス状の削平地に置かれており、土塁の基部列石として加工、配置されたものであることは間違いない。しかし断続的であり、また列石として加工されながら定位置から動かされた石材も多く見られる。列石上にわずかに版築土が見られる部分もあるが土塁としては未完成である。列石として加工、設置された石材の一部は西門や中央丘陵の礎石などに転用されており、この土塁線の工事を中止した後、北側に張り出す外郭土塁線が作られたものと考えられる。つまり、城内に現在断続的に残る列石線が当初の計画された外郭ラインで、その後北西部の城域を拡張すべく計画が変更され、新たに築かれた約六〇〇メートルの土塁には列石を用いる工法が採られなかったのだろう。