これまでの調査で、御所ヶ谷神籠石が九州のほかの神籠石式山城と異なる様相が見えてきた。従来、九州の神籠石の列石は土塁前面に露出することが報告されているが、御所ヶ谷のトレンチ調査ではすべて版築で覆われていた。この点、石城山神籠石、大廻小廻山城などの瀬戸内地方の山城と共通する。御所ヶ谷の場合、列石設置後に列石の前面を丁寧に調整し、また神籠石特有の鍵形整形により、列石の上縁をそろえていることから、当初は列石の前面まで土塁を削りだして露出させる計画だった可能性がある。
発掘調査の結果は、御所ヶ谷神籠石が築城過程において幾度も計画の見直しが行われていることを物語っている。こうした一連の計画変更には工事の簡素化への方向性が見えるがこの原因は何であろうか。想像を逞(たくま)しくするならば、白村江の敗戦で唐や新羅による侵攻の危機感が工事を急がせる契機となったかもしれない。記録に見える白村江以降築城の諸城に、神籠石のような丁寧に加工された切り石の列石が見られないこともそのことを示唆しているのではなかろうか。御所ヶ谷神籠石は、一遺跡の中で古代山城の築城工法の変遷がたどれるという点できわめて貴重な遺跡といえる。
最後に御所ヶ谷神籠石の特徴を同じ豊前国にある唐原神籠石(築上郡大平村)と比較してみたい。
御所ヶ谷が標高六〇メートルから二四〇メートルの峻険な地形に対して、唐原は四〇メートルから八〇メートルのなだらかな丘陵と異なるが、平野に面して主要交通路を押さえる位置にある点では共通する。
これらの山城は七世紀の唐や新羅との緊張関係など東アジアの情勢の中で築造された可能性が高い。御所ヶ谷では大宰府方面から瀬戸内海へ至るルートの、唐原では杷木や朝倉など筑後方面から瀬戸内海へ至るルートのそれぞれ、九州における最後の防衛拠点として選地されたと推定される。
こうしたなかで御所ヶ谷の外郭土塁線が十分機能するほどに完成しているのに唐原のそれが未完成であるのは、九州における防衛の中枢が朝倉宮周辺から大宰府へ移ったことが要因であろう。朝倉宮のある筑後方面と連携する唐原は二義的な城として築造が中断され、大宰府と畿内とのルート上にある御所ヶ谷はなお戦略的価値を有する城として整備が続けられたものと考えられる。