「豊前国風土記曰 田河郡 鹿春鄕[在 郡 東北] 此鄕之中有レ河 年魚在之 其源従二郡東北杉坂山一出 直指二正西一流下 湊二会真漏川一焉 此河瀬清浄 因号二清河原村一 今謂二鹿春鄕一訛也 昔者 新羅国神 自度到来 住二此河原一 便〓 名曰二鹿春神一 又 鄕北有レ峯 頂有レ沼[周州六 歩許] 黄楊樹生 凲有二龍骨一 第二峯有二銅幷黄楊龍骨等一 第三峯有二龍骨一」
(『豊前国風土記』逸文)
「豊前の国の風土記に曰はく、田河の郡。鹿春の鄕[郡の東北の方にあり。]此の鄕の中に河あり。年魚あり。其の源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直に正西を指して流れ下りて、真漏川に湊ひ会へり。此の河の瀬清浄し。因りて清河原の村と号けき。今、鹿春の鄕と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便〓ち、名づけて鹿春の神と曰ふ。又、鄕の北に峯あり。頂に沼あり。[周り州六歩ばかりなり。]黄楊樹生ひ、凲、龍骨あり。第二の峯には銅、幷びに黄楊・龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり」
この『豊前国風土記』逸文は、田河郡鹿春郷の地名の由来、鹿春の神そして香春岳について記している。これには異伝があり、『香春神社文書』所収『香春神社縁起』に引く『豊前国風土記』逸文は「第二の峯には竜骨有り。第三の峯には銅有り」とし、第三峯を銅山とする3。
第一~第三峯龍骨は香春岳の一の岳、二の岳、三の岳を指している。その様子は龍の背に似ていたために龍骨と表現されたのであろう。その三の岳の麓に採銅所(現・香春町)の地名が残っている。この地名は古来採銅の盛んな地であったことに因(ちな)むものであろう。
三の岳の東麓には、宇佐八幡宮に奉納する神鏡用の銅を採掘したという「神間夫」(間夫は坑道の意味)や、その鋳造所とされる清祀殿がある。『太宰管内志』にも「第三峯は三の岳にて山中に古に銅を堀し穴四十八穴有りと云」と記していることからも、三の岳が古来、香春岳の産銅の中心であったことが想定される。では、いつから香春岳(三の岳)を含む豊前地方で産銅を始めたのであろうか。
産銅に関するものとして鋳鐘事業もその一つといえる。この鋳鐘事業をとおしてその時期を考えてみたい。
大宰府の観世音寺および京都妙心寺の両鐘は兄弟鐘といわれている。周知のごとく京都妙心寺鐘の内側には
「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連廣国鋳鐘」
と陽鋳され、「戊戌年」すなわち文武天皇二年(六九八)に筑前国糟屋郡の郡司が鋳造発起人であったことがわかる。また、観世音寺鐘の口辺底面には「上三毛」・「麻呂」の陰刻銘があり、大宝二年(七〇二)の豊前国戸籍断簡に見える「上三毛郡」との関係を指摘できる。さらに、両鐘の撞座文様と天台寺跡および筑前大分廃寺跡出土の軒丸瓦文様とが酷似しており、両鐘の鋳造と両寺が密接な関係にあったことが考えられる。この天台寺および筑前大分廃寺は那津官家と豊前地方に設置された屯倉群とをつなぐ「屯倉の道4」の沿線部に位置し、香春岳もその沿線部に位置する。このことから、遅くても七世紀代には香春岳(三の岳)を含む豊前地方で産銅及び鋳造事業をはじめたと考えることができる。
なお、豊前地方における産銅及び鋳造事業の開始時期について示唆する注目すべき遺構が下徳力遺跡から検出されている。下徳力遺跡5は北九州市小倉南区に所在する。同遺跡の弥生時代後期終末頃の竪穴住居跡から銅滓三点が出土している。同遺跡の発掘調査報告書によると、この銅滓は小倉南区に点在する国産の銅滓と近似した鉱物組成・化学組成を示し、国産銅であった可能性が高いと報告されている。
下徳力遺跡の所在地は古代において豊前国規矩郡である。『日本三代実録』元慶二年三月五日条には「詔して、大宰府をして豊前国規矩郡の銅を採らしむ」と記されている。下徳力遺跡所在地の徳力地区から銅滓が多量に散布し、図里(ズリは銅滓の意)・金クズ原・銅山・金山・元慶山などの小字名が残ることから豊前国規矩郡における銅山の地を徳力地区に求められている6。そうなると、豊前国規矩郡では弥生時代後期終末頃から、自然銅を採集する原始的な形で採銅が行われていた可能性が生じてくる。ただし、豊前国規矩郡と香春岳のある田河郡は隣接していることから、香春岳の銅が規矩郡に運ばれた可能性も否定できない。現時点においてはいずれとも決め難いが、観世音寺鐘の口辺底面の「上三毛」の陰刻銘を考慮にいれると、少なくとも豊前地方における銅生産は律令制以前まで遡(さかのぼ)ることができるのではないだろうか。