再び、『豊前国風土記』逸文にもどる。そのなかでも注目すべき点は香春(鹿春)神を新羅神としていることである。
その香春(鹿春)神は『続日本後紀』、『香春神社縁起』では「辛国息長大姫大日(目)命」と記されている。また『延喜式』巻一〇の「神名帳」の中では「辛国息長大姫大目神社」と記されている。
「辛国」=「韓国」であることから、香春神(鹿春神)は渡来神であり、その背景にはこの渡来神を奉祭する渡来系集団の存在が考えられる。現時点においてその存在について直接示す史料は存在しないが、大宝二年豊前国戸籍断簡には多くの勝姓者・秦部が見られることから、勝姓者・秦部は豊前地域の広範囲に及んでいたと考えられる。香春岳の所在する田河郡とその周辺にも勝姓者・秦部が分布していた可能性は高い。その秦氏に関係する渡来系集団が香春神(鹿春神)を奉祭したと考える。
ところで、「辛国息長大姫大目神社」であるが、『延喜式』に見える大隅国囎唹郡三座の一座「韓国宇豆峯神社」との関係を指摘されている7。
和銅六年(七一三)、日向国より薩摩国につづいて大隅国を分立させる8。翌和銅七年(七一四)には、隼人の教化と国府防衛のために豊前国の各地より国府所在郡の桑原郡に二百戸(約五〇〇〇人)の人々が移住させられる9。移住に際し、豊前国で奉祭していた渡来神を隼人の地に勧請して韓国宇豆峯神社が成立したと考えられている。そのことを裏付けるように韓国宇豆峯神社は国府を守護するように国府の所在する国分平野の東端に配置されている。なお、韓国宇豆峯神社は隼人族の反乱が鎮静化しても存続し後世において式内社として位置付けられていったと考えられている。