大和では欽明天皇陵と考えられる奈良県橿原(かしわら)市の見瀬丸山古墳をもって大王墓としての前方後円墳の築造はとだえた。西日本における前方後円墳の築造は六世紀後半で概ね終焉(しゅうえん)を迎える。東国でも、これにやや遅れるが七世紀の初めには前方後円墳の築造は終わる。円墳や方墳などの築造はその後も継続するものの、首長権の継承システムが確立されることによって、前方後円墳体制と呼ばれるような政治的所産としての古墳造営は終了する。中央集権国家づくりを推進する倭政権は、その基盤を形成するための普遍的思想を仏教に求めた。そして新たなる政治的文化的モニュメントとして寺院造営が開始される。しかし仏教が我が国に伝わってからそれが公認され、本格的な寺づくりが行われるまでにはある程度の歳月を要した。
宣化三年(五三八)、仏像と教典が百済の聖明王から倭国の欽明天皇にもたらされ、これをもって一般に仏教公伝とされる。仏教の受容については、受容派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立したが、用明二年(五八七)、物部氏の滅亡により、朝廷としても仏教を国をあげて受け入れることとした。
崇峻元年(五八八)、蘇我氏の発願した飛鳥寺(あすかでら)の建設が始まり推古四年(五九六)に完成する。舒明一一年(六三九)には官寺として百済大寺の建設が始まり、国家仏教の道具立ても次第に整っていった。
飛鳥寺造営開始三七年後の推古三二年(六二四)、『日本書紀』によると、全国で四六の寺院と僧八一六人、尼五六九人が存在したとある。この頃の寺院の造立は畿内が中心であるが、急速に造寺造仏が行われていった様子がわかる。
一方、この時期の地方の実態はどうであろうか。七世紀前半までの地方寺院の実態は、文献史料からは明らかでない。しかし、北部九州では七世紀の中頃までに、福岡県太宰府市の神ノ前窯跡、同大野城市の大浦窯、月の浦窯、築城町船迫窯、大分県中津市の伊藤田窯などで瓦の生産が行われていたことがわかっている。これらの瓦を用いた建物についてはまだ実態が知られていないが、朝鮮半島と一衣帯水の北部九州には渡来人の往来も多く、早い段階で寺院が造立されていた可能性もある。しかし北部九州も含めて地方の寺院造立が本格化するのは、七世紀後半の白鳳期を待たねばならない。持統六年(六九二)の時点で全国寺院数は五四五ヵ寺であり、先にあげた推古天皇三二年からわずか七〇年の間に寺院の数は一〇倍以上に増加し、寺院造立の風が急速に広がったことを示している。