地方寺院は、それまで大型の古墳を築いてきた地域の有力豪族層が、その経済力を背景として造立したものと考えられる。中央政府の仏教政策の一翼を担うとともに、古墳に代わる在地支配のシンボルとしての役割も果たした。
しかし地方におけるこうした活発な造寺活動は、律令支配を支える思想的バックボーンとして中央の官寺が造立されていったのとはやや異なる背景もあったようだ。
在地豪族が競って造寺を行なったもう一つの理由に、土地を合法的に私有化する手段として田畠を寺院に施入していったことがあげられる。土地の私有化のための寺づくりは、天平一五年(七四三)の墾田永世私有令の発布により鎮静化していき、地方豪族たちは、新たな土地獲得策として墾田百町歩の開発が可能な「五位」の地位を得ることに力点を移していった。古代寺院の造立が天智から天武朝にかけて集中するのにはこうした歴史的背景もある。