豊前地域の古代寺院

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 豊前地域は九州のなかでも早くから仏教文化が受容され、多数の古代寺院が造立されている。これは豊前地域が九州のなかで地理的に畿内文化を受け入れやすいことと、渡来系の人々が多く定着していたことと無関係であるまい。それでは豊前地域の古代寺院の様相について具体的に見ていこう。
 
図31 豊前国の官道と古代寺院
図31 豊前国の官道と古代寺院
1:椿市廃寺,2:菩提廃寺,3:豊前国分寺跡,4:豊前国分尼寺,5:上坂廃寺,6:木山廃寺,7:天台寺跡,8:垂水廃寺,9:相原廃寺,10:塔の熊廃寺,11:法鏡寺跡,12:弥勒寺跡,13:小倉池廃寺,14:虚空蔵寺跡

菩提廃寺(京都郡勝山町松田) 京都郡と田川郡の境をなす仲衰峠の東麓に位置する。昭和二八年(一九五三)、塔跡とその北東三〇メートルの山中に金堂跡が発見された。塔は出枘(でほぞ)式心礎を有する三間四方の構造で、金堂は間口五間、奥行四間の構造である。
 菩提廃寺の伽藍は京築地域のほかの古代寺院と異なり山中に配置されているのが特徴で、創建の時期はほかの寺院よりやや下る九世紀頃と推定されている。
 
写真17 菩提廃寺の塔礎石
写真17 菩提廃寺の塔礎石

木山廃寺(京都郡犀川町木山) 木山廃寺は御所ヶ谷神籠石のある山並みの南麓、松阪川により形成された扇状地の先端部に建立された寺院である。寺跡は、明治九年(一八七六)頃の土地改修事業でほぼ消滅し、伽藍の配置などは不明である。しかし、半分に割られた塔の心礎が木山の集落に移され、塞(さえ)の神(かみ)の石碑に利用されていることから塔をもった寺院であったことが推定される。この心礎とは別に木山廃寺の輪蔵の礎石とされる石造物があるが、これは塔の露盤の可能性が高い。
 
図32 割られて石碑にされた木山廃寺の塔心礎
図32 割られて石碑にされた木山廃寺の塔心礎(1/30)

図33 木山廃寺の石製露盤
図33 木山廃寺の石製露盤(1/30)

 この遺跡から出土する瓦は二系統あり、一つは椿市廃寺などと同じ組み合わせの百済系単弁八弁軒丸瓦と重孤文軒平瓦のセットで、もう一つは、豊前国分寺などと共通する複弁八弁蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦のセットである。
 これらの瓦は、木山廃寺の北西約一キロメートルの山中に位置する福六窯跡で焼かれたものである。この窯跡はすでに湮滅(いんめつ)しているが、それぞれの組合せの瓦を焼いた窯が少なくとも一基ずつ、計二基があったと推定されている。
 木山廃寺は八世紀の前半から中頃に建てられた寺院と考えられるが、この頃すでに仲津郡には上坂廃寺があり、同一郡内の二つ目のこの寺が、誰によって建てられたのか解明が待たれる。
 
図34 木山廃寺出土軒先瓦拓影・実測図
図34 木山廃寺出土軒先瓦拓影・実測図(1/6)

上坂廃寺(京都郡豊津町豊津) 京都平野の東側を流れる祓川の西岸に位置する。舎利孔のある塔心礎や付近に散在する古瓦片から、古くより古代寺院の存在が知られていた。昭和五八年、圃場整備事業に先立ち遺構確認調査が行われ、観世音寺式伽藍配置が想定されている。
 
写真18 上坂廃寺の塔心礎
写真18 上坂廃寺の塔心礎

 出土する瓦は、百済系単弁八弁蓮華文軒丸瓦とこれとセットをなす重孤文軒平瓦、老司系の単弁十九弁蓮華文軒丸瓦、扁行(へんこう)唐草文軒平瓦、単弁七弁蓮華文軒丸瓦である。
 上坂廃寺は七世紀後半に造立され、九世紀頃まで存続したと考えられている。
 
図35 上坂廃寺出土瓦
図35 上坂廃寺出土瓦(1/6)
1:百済系軒丸瓦,2:大宰府系軒丸瓦(老司式),3:単弁七弁軒丸瓦,4:重弧文軒平瓦,5~7:大宰府系軒平瓦

 
垂水(たるみ)廃寺(築上郡新吉富村垂水) 中津平野の西北部、友枝川西岸の河岸段丘上に位置している。一九七〇年代に発掘調査が実施され、築地(ついじ)で囲まれた二町四方の寺域が確認されたが、伽藍配置などはわかっていない。
 瓦は百済系単弁八弁軒丸瓦、重孤文軒平瓦、新羅系の複弁八弁軒平瓦、扁行唐草文軒平瓦などが出土しており、他に文様塼、塑像(そぞう)も出土している。瓦窯跡としては友枝瓦窯跡、山田窯跡、桑野原(かのうばる)窯跡がある。
 建立時期は、七世紀末と考えられる。
 
天台寺跡(田川市鎮西町) 彦山川東岸の丘陵上に位置し、北側に香春岳を望む。第二次大戦以前には金堂跡や塔跡、僧房跡の礎石が残っていて法起寺(ほっきじ)式伽藍配置であったことがわかっている。
 昭和六〇年から田川市教育委員会による発掘調査が行われ、塔と東西廻廊の重複から創建期には塔のない特異な伽藍構成であったことが明らかにされている。
 瓦は、精緻にして華麗な新羅系の軒丸、軒平瓦のセットのほかに、豊前の他寺院と系統を異にする単弁八弁蓮華文軒丸瓦や、椿市廃寺と同笵(はん)(同じ文様の木型のスタンプが用いられた)の高句麗系単弁六弁軒丸瓦、唐草文や舌状文の軒平瓦二種が出土している。
 この寺院は、七世紀末から九世紀頃まで存続したと考えられる。
 
相原廃寺(大分県中津市相原) 山国川下流東岸に位置する。発掘調査され、西に塔を東に金堂を置いた法隆寺式伽藍配置が想定されている。現在は移動された塔心礎や礎石、金堂跡と推定される基壇が残っている。
 瓦は百済系の単弁瓦と重弧文軒平瓦のセットで、伊藤田ホヤ池瓦窯跡群で焼かれたものである。建立時期は七世紀末頃と考えられる。
 
塔の熊廃寺(大分県下毛郡三光村) 昭和六一年と平成元年の調査で軒先瓦や鬼瓦、瓦塔片などが出土し、寺院の可能性が指摘されている。出土した瓦から七世紀末ないし八世紀頃に創建されたと考えられる。
 
小倉池廃寺(大分県宇佐市上元重) 四日市台地上の小倉池にあって、渇水時のみ姿を現わす古代寺院跡。東西五間、南北四軒の乱石積基壇の礎石建物一宇のみの小規模な寺院である。
 瓦は鴻臚館系軒丸瓦と法隆寺系軒平瓦が採集されている。創建時期は七世紀末から八世紀にかけてと推定される。
 
虚空蔵寺跡(大分県宇佐市山本) 四日市平野の南奥に位置する。数回にわたり発掘調査が行われ、塔跡・金堂跡・講堂跡・南門跡・中門跡が確認され、法隆寺式伽藍配置が想定されている。塔跡からは奈良県の南法華寺と同笵の塼仏(せんぶつ)が多数出土している。
 出土する瓦は川原寺系などの軒丸瓦、法隆寺系の忍冬唐草文軒平瓦、新羅系の軒平瓦、大宰府系の鬼瓦がある。瓦や塼仏から、この寺が極めて強い畿内文化の影響下に創建されたことがわかる。
 創建の時期は、七世紀末頃と推定される。
 
法鏡寺廃寺(大分県宇佐市法鏡寺) 駅館川下流西岸の微高地上に位置する。これまでの発掘調査で金堂跡と再建された講堂跡が確認された。塔跡は確認されていないが、虚空蔵寺と同様に法隆寺式伽藍配置と想定される。
 創建瓦は、百済系単弁軒丸瓦と法隆寺系軒平瓦のセットである。このほかに川原寺系、鴻臚館系瓦も出土している。
 七世紀末前後に創建され、少なくとも平安時代初期まで存続した寺院である。法鏡寺廃寺は、古代辛島郷の中心に位置することから辛島氏の氏寺である可能性も高い。
 
弥勒寺跡(大分県宇佐市南宇佐) 弥勒寺は宇佐神宮の神宮寺として天平一〇年(七三八)に造営が開始され、宝亀一〇年(七七九)に完成した準官寺である。
 伽藍は宇佐神宮の西側に広がり、発掘調査により東西に二基の塔を配する薬師寺式伽藍配置が確認されている。
 出土する瓦には百済系単弁軒丸瓦や鴻臚館系軒瓦、法隆寺系忍冬唐草文軒平瓦などがある。