椿市廃寺から出土する瓦は、多様で軒丸瓦五種、軒平瓦二種が出土している。これらの中で最も出土量が多いのが、単弁八弁蓮華文軒丸瓦と重弧文軒平瓦で、このセットが椿市廃寺の創建期に葺(ふ)かれた瓦だと考えられる。
わずかずつ出土しているそのほかの軒瓦は、その後の補修に用いられたものであろう。高句麗系軒丸瓦は、前回の調査では塔推定地の東側のトレンチの瓦溜(かわらだま)りから集中的に出土しており、あるいは塔などの特定の建物に使用されたことも考えられる。このうち百済系の単弁瓦は、豊津町の上坂廃寺、犀川町の木山廃寺と同笵で、築城町の船迫窯跡群からも同笵瓦が出土している。高句麗系単弁六弁蓮華文軒丸瓦は田川市の天台寺廃寺と同笵であり、新羅系とされる扁行唐草文軒平瓦は、嘉穂郡筑穂町の大分(だいぶ)廃寺の瓦と同笵である。また、複弁八弁蓮華文軒丸瓦は奈良の平城宮跡の六二八四F型式と同笵であることも確認されている。この六二八四Fは平城宮では和銅三年(七一〇)~養老五年(七二一)頃の瓦とされている。椿市廃寺出土のものは 胎土・焼成が異なることから笵型が移動してきたと考えられる。
このように地方寺院の造立にあたっては、郡域を越えた交流が認められるが、特に椿市廃寺の場合は瓦当文から中央との関係も窺われて非常に興味深い。