建立時期と寺の造立者について

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 椿市廃寺は七世紀末ないし八世紀初頭に建立され、九世紀頃までは存続していたと考えられる。ではこの寺の建立者は誰であろうか。一般に白鳳から奈良初期の地方寺院の造立は、郡司などの在地の有力豪族が主体となるヶースが多いと考えられている。京都郡では現在まで、椿市廃寺以外に初期寺院が見いだされていないことから、その造立者は郡司級の豪族と考えて大過あるまい。
 椿市廃寺創建時の京都郡司の名を特定することは、残念ながらできない。しかし、『続日本紀』の天平一二(七四〇)年九月条に、藤原広嗣の乱に際し、兵五百騎を率いて官軍に帰順した京都郡大領外従七位上楉田勝勢麻呂(しもとだのすぐりせまろ)の名が見える。彼の功績は中央で高く評価され、外従五位下に叙位されたことが、翌、天平一三(七四一)年閏三月条に記されている。これらのことから大領楉田勝勢麻呂の、一、二代前の人物を椿市廃寺の造立者と考えることもできるのではあるまいか。楉田勝の「勝」は「村主」の意で渡来系の姓といわれる。椿市廃寺に多様な朝鮮半島系瓦が使用されていることも上記の考えの支証となろう。さらに平城宮の軒丸瓦の笵型がもたらされたことも、広嗣の乱に活躍した大領楉田氏と中央政権との関わりに求められるであろう。さてこの楉田氏の出自であるが、『日本後紀』の延暦一八年(七九九)年二月乙未条に「豊前国宇佐郡楉田村」と見える。京都郡域には楉田の地名は残っていないが、京都郡霜田村(現・勝山町下田)を楉田の遺称とする説もある(吉田東伍『大日本地名辞書』)。
 以上のように多彩な文化交流の様相がみえ、寺を造立した氏族も推定できる椿市廃寺は、地方における古代仏教文化の展開を考える上で極めて重要な史跡といえる。
 しかし、こうした七、八世紀におけるこの地域の豪族の動向を考える資料は現時点では決して多いとはいえない。いまだその位置が特定されていない京都郡衙や豪族の居館跡などが将来究明されていく中でこれらの問題も解明されていくことであろう。