地方の豪族たちはそれまで保持していない寺づくりに必要な新しい技術をどのように導入したのであろうか。地方の古代寺院に葺かれた瓦の製作技法や文様をみると、朝鮮半島からそれぞれの地域へと直接伝えられるルートと、朝鮮半島から一度畿内へ入り、そこから地方へ間接的に伝えられる畿内経由ルートがあることがわかる。
豊前地域の古代寺院では、椿市廃寺や木山廃寺などで出土する単弁八弁蓮華文軒丸瓦には、畿内の坂田寺の瓦の影響が認められる。また宇佐地域の虚空蔵寺跡や法鏡寺廃寺などからは法隆寺や川原寺の系統の瓦が出土し、畿内との強い関係をうかがわせる。一方、天台寺跡、垂水廃寺、椿市廃寺から出土する新羅系の軒先瓦は朝鮮半島からの渡来系工人が実際の瓦造りに関与したと考えられている。こうした瓦の系譜から、地方の豪族が寺院を建立する際どこに技術的支援を求めたかが浮かび上がってくる。一つには畿内の政権中枢部にいる有力豪族や中小豪族、もしくは畿内に居住する渡来系氏族など中央の政治勢力を介して寺づくりが行われるケース。もう一つは、地方の豪族が直接朝鮮半島の技術者を動員して寺づくりが行われるケースである。これらの渡来系の技術者を擁した地域の豪族たちの中には、椿市廃寺の造立者のように自らもまた渡来系の氏族である場合も少なくなかったと考えられる。
豊前の古代寺院の出土瓦は、畿内の技術的系譜をひくものと朝鮮半島の影響が強く認められるものが共存することが特徴である。大宝二年の豊前国戸籍に見えるように、渡来系氏族が数多く居住したこの地域の特徴が、こうした寺づくりにも反映されている。