大化元年(六四五)八月の詔は、天皇から伴造に至るまで造寺を奨励し、「営(つく)ること能(あた)はずは、朕(ちん)皆助け作らむ」というほどの積極的な寺院建立の方針を打出していた。しかし地方における仏寺経営は中央にくらべると、まだ貧弱な状況にあった。
六七〇年代になると仏教による地方教化政策がすすめられるようになった。天武朝以後諸国に金光明経・仁王経をくりかえして講説することが行われて、国土安穏・人民豊楽を祈る鎮護国家の国教として普及させようとする政府の姿勢が打出されてきた。『日本書紀』によってその推移の概要をうかがっておこう。
天武天皇五年(六七六) 一一月、使を四方の国に遣わして、金光明経・仁王経を説かしむ。
同一二年(六八三)三月、僧正・僧都・律師を任命し、法を遵守して僧尼を統制すべきことを勅した。
同一四年(六八五)三月、諸国に国ごとに仏舎を作り、仏像・経典を置いて礼拝供養すべきことを詔した。
持統天皇六年(六九二)閏五月、京師(みやこ)・四畿内に詔して金光明経を講説させた。
同月、筑紫大宰率河内王(つくしのおおみこともちのかみかわちのおおきみ)に詔して、沙門(ほうし)を大隅と阿多に遣わして仏教を伝えさせた。
同八年(六九四)五月、金光明経百部を諸国に送置し、毎年正月上玄(かみつゆみはりのひ)に読ませ、その布施(おくりもの)は当国の官物(おおやけもの)を充(あ)てさせた。
同一〇年(六九六) 一二月、勅して金光明経を読ませることから、毎年一二月晦日(みそかのひ)に浄行者一〇人を出家させた。