八世紀前半の仏教活動

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 ひきつづいて、天候不順による凶作や地震などの天災に対する鎮護のための講経、諸国への仏教普及とそれに伴う僧尼制度の整備など仏教の国教化に向けての努力が続けられた様子を『続日本紀』によってうかがってみよう。
 
 大宝三年(七〇三)七月、四大寺に金光明経を読ませる。
 慶雲二年(七〇五)四月、詔して曰(のたまわ)く、「(前略)水旱時を失い、年穀登(みの)らず、民をして菜色多からしむ。此を念(おも)う毎に、心に惻怛(いた)めり。五大寺をして金光明経を読み、民の苦しみを救うことを爲さしむべし。(下略)
 和銅元年(七〇八)七月、詔して京師(みやこ)の僧尼と百姓(はくせい)らの年(とし)八十以上とに粟(あわ)賜う。百年には二斛(こく)、九十には一斛五斗、八十には一斛。
 和銅二年(七〇九)六月、勅して曰く、「大宰率(だざいのそつ)より已下品官に至るまで、事力半(なか)ばを減(へら)せ。ただし、薩摩・多褹(たね)の両(ふたつ)の国司と国師の僧らとは、減す例に在らず」
 養老四年(七二〇)三月、勅して三百二十人を度(ど)して出家させる。
 養老七年(七二三)二月、僧満誓(俗名従四位上笠(かさ)朝臣麻呂(まろ))を筑紫に遣わし観世音寺を造らせる。
 神亀二年(七二五)七月、七道諸国に詔して曰く、「(前略)神を敬い仏を尊(とおと)ぶることは、清浄を先とす。(中略)国司の長官自ら幣帛(みてぐら)を執り、慎みて清掃を致して常に歳事となすべし。また諸寺の院の限(かぎり)は、勃(つと)めて掃浄を加へ、仍て僧尼をして金光明経を読ましめよ。若しこの経無くは、便(すなわ)ち最勝王経を転して、国家をして平安ならしめよ」
 同九月、詔して曰く、「(前略)天皇異(い)を示し、地動震(どうしん)を顕(あらわ)す。(中略)所司をして三千人出家入道せしめ、幷(あわ)せて左右(さうの)京と大倭(やまと)国との部内の諸寺、今月廿三日より始めて一七転経せしむべし。この冥福(めいふく)に憑(よ)りて、冀(ねが)わくは災異を除かんことを」
 神亀五年(七二八)一二月、金光明経六十四帙六百四十巻を諸国に頒(わか)つ。国別(くにごと)に十巻。是(こ)れより先、諸国の有(も)てる金光明経、或る国は八巻、或る国は四巻。是(ここ)に至りて写し備(そなわ)りて頒ち下す。経至る日に隨いて即ち転読せしむ。国家をして平安ならしめんが為なり」
 天平九年(七三七)三月、詔して曰く、「国毎(くにごと)に、釈迦仏の像一体、挟侍菩薩(きょうじのぼさつ)二躯を造り、兼ねて大般若経(だいはんにゃきょう)一部を写さしめよ」
 天平一二年(七四〇)六月、毎国(くにごと)に法華経十部を写し、幷せて七重塔を建てさせる。
 
 天平年間に至るまでの動向をたどってくると、経典の講説にあわせて、諸国に仏像を造顕し、七重塔を建てさせる計画も立てられていたことが知られる。ことに天平九年に発生した天然痘(てんねんとう)は筑紫から始まって東方に拡大して猛威を振い、ついには政権の中枢にいた藤原四兄弟(武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂)まであいついで急死した。社会不安はいよいよ高まっていった。国分寺造営の社会的背景はこのようにして増幅されていった。