聖武天皇が国分二寺の建立を発願した背景に、中国隋・唐王朝の官寺制度が参考にされたのではないかといわれている。すなわち隋の文帝が各州県に僧寺・尼寺を設置する詔を発し、唐代には則天武后が天授元年(六九〇)諸州に大雲寺を造り大雲経を講じさせた。その後も中宗の神龍三年(七〇七)諸国に中興寺(のち龍興寺と改名)を建立し、玄宗も開元二六年(七三八)に開元寺を国ごとに設けて、それぞれ仏教寺院による国家統制策が行われた。これらの中国の情報は留学僧たちによって伝えられたであろう。国分二寺の設置という発想が中国に由来したとしても、直写ではなかった。すなわち隋の文帝が仁寿舎利塔を建てて舎利を頒(わか)ったが、国分寺では金字最勝王経を頒っている。また唐の大雲寺は大雲経に拠っているが、国分二寺は金光明最勝王経と妙法蓮華経という護国経典と、女人もともに成仏せんことを願うものであった。また中央の東大寺は盧舎那仏を本尊とし、地方の国分寺では釈迦仏を安置させたことは、個人と国家の一体化を説く梵網経に拠っている。これらからわが国分寺制度の独自性も注意されている。