国分二寺の完成

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 国分二寺の建立は、全国一斉に開始され、一斉に完成したものでもなかった。天平一九年(七四七)一一月七日の詔には、七重塔の造立・金字金光明経一部の写経安置について「諸国(くにぐに)の司等、怠緩(たいかん)して行わず、或いは寺を処(お)くに便(たより)あらず。或いは猶基(なおもとい)を開かず」という有様であった。中央政府では在地の実力者である郡司クラス起用策を立て、「郡司の勇幹にして諸事(ことごと)を済(な)すに堪(た)うるを任じて、専(もっぱら)主当せしめよ。来る三年より以前(さき)を限りて、塔・金堂・僧坊を造りて悉(ことごと)く皆了(お)えよ。若(も)し能(よ)く勅に契(かな)い理(ことわり)の如く修(おさ)め造らば、子孫は絶ゆることなく郡領の司に任ぜむ」と詔して、国分寺の完成とひきかえに郡司職の永代保証を約束した。また寺領についても、天平一六年(七四四)七月詔して、国ごとに正税四万束を割(さ)いて僧尼両寺に入れ、出挙(すいこ)してその利息を永く造寺の用に充てることとしたが、さらに加えて僧寺に九〇町、尼寺に四〇町の墾田を施入した。新たな墾田施入事業が国郡司に托されたことは、墾田開発を国分寺に寄せた国郡司の私領化の弊害を助長することにもなった。天平勝宝元年(七四九)七月には諸寺墾田地の制限令を発している。国分僧寺は一千町、尼寺は四百町とする上限が定められた。