国分寺建立の詔をうけて九州地方(西海道)での対応はどうであろうか。その動向が窺える史料は、『続日本紀』の天平勝宝八年(七五六)一二月二〇日の記録である。このなかには北陸・山陰・山陽・南海・西海道の二六国をあげて、「国別(ごと)に灌頂(かんちょう)の幡(はた)一具・道場の幡卌九首・緋綱(あけのつな)二条を頒(わか)ち下(くだ)して、周忌(しゅうき)の御斎(おおみおがみ)の莊餝(かざり)に充(あ)てしむ」と記されている。西海道では筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向の六国があがっている。仏事用荘厳具類の頒下という内容からして、この頃までに主要堂塔の建立はほぼ完成していたとみてよいであろう。
ここには筑前国分寺が見えないが、大宰府政庁や筑前国衙と至近距離にあって、その膝下に建立されたこと。府大寺である観世音寺が着工以来八〇余年の歳月を経て完成したのは天平一八年(七四六)であったことなどを考えあわせると、観世音寺以前に完成した可能性はきわめて少ないと思われる。また考古学から創建古瓦についてみると、鴻臚館系Ⅱ式軒先瓦が主流であり、観世音寺の創建瓦(老司I式軒先瓦)より明らかに後出型式である。以上を総合して、筑前国分寺の建立は、天平勝宝八年一二月以前に完成していたとみられる。
次に、見えない薩摩・大隅両国分寺については、弘仁一一年(八二〇)成立の『弘仁式』主税の項に、
肥後国(中略)国分寺料八万束[当国六万束/薩摩国二万束]
日向国(中略)国分寺料三万束[当国一万束/大隅国二万束]
とあって、それぞれ隣国の肥後国と日向国から国分寺料の支出援助をうけている。薩摩・大隅両国には自国で十分にまかなえない事情があったからである。さらに下って延長五年(九二七)成立の『延喜式』主税の項には両国とも自国で国分寺料二万束が支出できるようになっている。この両国に班田収授制が実施されるようになったのは延暦一九年(八〇〇)であった(『類聚国史』延暦一九・一二・九)。その二〇年後にあたる『弘仁式』成立時点でもまだ国分寺料稻を自国で支出できるほどの実があがっていなかったのであろう。
以上の論旨を整理すると、西海道国分寺の成立は次のように三段階あったことが知られる。
薩摩国分寺については寺跡と生産瓦窯跡の発掘調査が、また大隅国分寺についても生産瓦窯跡の発掘調査が行われていて、ともに九世紀にまで下らない頃に成立したことがうかがわれる。
西海道は九国二嶋から成り、対馬・壱岐にはそれぞれ嶋分寺が在る。そのうち遺跡の知られている壱岐については、『延喜式』玄蕃の項に「壱岐嶋直(あたい)の氏寺を嶋分寺となし、僧五口を置く」とあり、以前に建立されていた壱岐嶋直の氏寺を充てたものであった。近年の発掘調査によって八世紀前半の平城京跡所用瓦を使用していることが知られた。早くから中央に出仕していた壱岐嶋直氏の歴史的背景に負うている。