豊前国分寺は京都郡豊津町国分二八〇番地に在る。南方の山々を源として北東周防灘に注ぐ祓川と今川に挟まれた標高六九メートルの低丘陵中央部に位置していて、京都平野を眺望できる好処である。近年歴史地理学の調査によって、国分寺のすぐ北側を天生田(あもうだ)-長養池-国作(こくさく)と結んで東西に走る古代道路の痕跡が認められ、大宰府に発して田河駅を通り築城駅に至る古代官道「豊前路」にあたる。
当国分寺の消長は前述した天平勝宝八年一二月の建立を推測させる史料以降不明である。時代が下り、天正年間に大友宗麟の兵火によって寺及び子院はすべて廃墟と化したと伝えるが、慶安三年(一六五〇)当国上毛郡の僧尊応が里人とともに建立を企て、寛文六年(一六六六)竣工した。現在の国分寺はその後裔(こうえい)である。江戸時代の『太宰管内志』や『柳村雑記』などに当寺について観察されているが、具体的に堂塔伽藍に関する記録はみられない。
国分寺は国分集落の北端部に位置し、三重塔が叢林の上にそびえ建ち、遠くからも望見される。この塔は明治二八年(一八九五)に再建され、さらに昭和六二年(一九八七)に造改築された。現在、金光明四天王護国院国分寺と称し、昭和五一年(一九七六)に国指定史跡になった。現在の主要堂宇は、南門・中門(鐘楼)・本堂・三重塔であり一七世紀以降の再建であり、創建堂宇の位置・規模などとは無関係である。
現国分寺域とその周辺からは古瓦が多く発見されているところから識者の注目をひいてきた。昭和四九年(一九七四)住宅建設に伴う緊急調査に始まり、豊津町教育委員会による昭和六〇~六一年(一九八五~八六)の調査があり、遺跡について新知見が得られた。次にその概要を整理しておく。
①推定南門から約九七メートル北に、東西三〇メートル、南北二〇メートルの高まりと、その南端部で玉石列を確認して、この高まりを建物基壇と推定。
②その後、推定基壇の北側列並びに雨落溝を確認。さらに一部に張り出しがあり階段の可能性を考えた。
③基壇外側には自然石や瓦が散乱し、さらに北方二〇メートルで礎石や塼を含む土壙が発見された。
④以上によって高まり部は講堂跡に比定され、その規模は東西約二七メートル(南北不詳)で、基壇は自然石および塼積み、花崗岩の礎石を使用した。
⑤金堂の位置は講堂基壇・中門・三重塔などから、現庫裡からその南のあたりが妥当である。
⑥塔の位置は現三重塔復原時の地下調査で、中世以降の遺構が発見されて現位置でないことが知られ、東側に在った可能性がある。
⑦伽藍中軸線から東西、南北三三メートルの位置で幅三メートルほどの南北溝を発見。
⑧廻廊跡は不詳であるが、前項の東西三三メートルを隔ててある幅三メートルの溝を、廻廊外を区画すると考えるとき、東西幅は約二一九尺である。