豊前国分尼寺跡の調査

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 天平一三年(七四一)三月に発せられた国分二寺建立の詔に、寺名を法華滅罪之寺と定め、尼一〇人が配置された国分尼寺跡は、国分僧寺の東方二〇〇メートルほどの丘陵上にその伝承地を残している。両寺跡のある丘陵はその間に水田低地を介在させている。近代における国分尼寺跡の様子は、『京都郡誌』(一九一九年)に次のように伝えられている。
 「仲津郡国分村国分寺本堂より三町許東方に、尼寺跡ありて、今僅に二間四方地蔵堂のみあり。堂の四方、往々に昔の礎残れり。境内凡て二町四方許なるが、今に至て、其内を耕す事を禁むれば、荒原となれり。」
 また近世の記録などから知られるところでは、江戸時代中期頃には国分僧寺の末寺となり、無住の地蔵堂が残っていて周囲は荒地となっていたようである。その後文政一一年(一八二八)に暴風によって倒壊してしまった。現在は一〇メートル四方余りの土地に「国分尼寺」銘石碑を残すのみである。平成元年(一九八九)度に地蔵堂推定地を豊津町で公有化したが、その範囲は推定地内の北寄り、一六三平方メートルのほぼ正方形域である。またここには現在礎石一個があるが、これはかつて北東部隣接地の徳政地区墓地にあって、読経時の霊柩安置台に利用されていた。昭和五三年(一九七八)同墓地内に町道が設置された際、土中に埋められたのち、再度掘り出されて現在地にはこばれた。礎石の表面には楕円形状の柱座が造り出され、長径八一センチメートル、短径七六センチメートル、造出高さ一・五センチメートルほどに復元される。このほか徳政の若宮八幡宮入口の鳥居柱座に利用された礎石がある。
 
写真23 豊前国分尼寺跡発掘調査区全景(東より)
写真23 豊前国分尼寺跡発掘調査区全景(東より)

 平成四年(一九九二)二月、町史跡指定のための資料を得るために先の町有地が発掘調査された。しかし発掘区の面積も小さいためか、瓦礫や土器片を包蔵する落ちこみと、そこから北・東・南方向に延びる溝状遺構が発見されたが、江戸時代に下るものである。尼寺関係の古瓦では老司系扁行唐草文軒平瓦と、平安時代の細弁三七弁軒丸瓦が知られている。
 
写真24 堂がへり2号窯跡焼成部瓦出土状況
写真24 堂がへり2号窯跡焼成部瓦出土状況