乱と鎮の所在地

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 広嗣は最初に豊前国の登美・板櫃・京都の三鎮を攻略する。この「鎮」であるが軍団の所在地ととらえ、そこの営兵を豊前国の軍団の兵と考える説8がある。この説に対して、「鎮」を大宰府の直轄の軍営で「防人」の配備地と考える説9がある。京都郡鎮の鎮長が大宰府史生従八位上小長谷常人であり、小長谷常人は二年前の天平一〇年(七三八)には防人部領使として周防国を通過している10。その大宰府直属の官人であった彼が二年後の天平一二年(七四〇)には京都郡鎮の鎮長になっていた。このように大宰府直属の官人が派遣される「鎮」は大宰府との密接な関係が指摘され、地方豪族が大毅・小毅になる軍団の機構と異なることから、ここでは「鎮」を大宰府の直轄の軍営で「防人」の配備地と考えることにする。
 ところで、「防人」は大化改新の詔に初見するがその史料としての信憑性を考えると、この制度が実際に制度化され、充実していくのは、白村江の敗戦後の天智三年(六六四)と考えられる11。防人は、はじめ諸国から出されたようであるが、天平二年(七三〇)九月の諸国防人の廃止令以後12は、東国出身の兵をもっぱらあてている。その後、廃止と復活を繰り返しながら、しだいに筑紫出身の兵に代えられていく。最終的には東北地方出身の夷俘をあてるようになる13。そして、平安時代になると対外関係の変化により防人は制度として本来の意味が失われてくる。
 ただし、広嗣が乱を起こす三年前の天平九年(七三七)に防人制が廃止され14、翌一〇年には大宰府からの防人の送還がなされているので15、「鎮」には防人がいなかったはずである。しかし、天平一二年の広嗣の乱の際には「鎮」に多くの兵がいた。この兵は「当国兵士」(豊前国の兵士)であったと考えられており、東国出身の兵の代わりに補充されている。
 では、防人が守る部処はどのような地点であったか。次はこの点についてふれることにする。
 
「沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば也良の崎守早く告げこそ」(『万葉集』巻一六・三八六六)
 博多湾に浮かぶ残島(能古島)に、玄界灘に向かって突き出た也良の岬があり、ここを守った防人の歌が右の史料である。そのほか、対馬島・壱岐島・肥前国(防所郷16)、そして豊前国(登美・板櫃・京都の三鎮)の各地に置かれたと考えられている。対馬島・壱岐島は言うまででもなく国境地帯。豊前国などの周防灘沿岸や関門海峡に面した所。そして、一部ではあるものの、有明海周辺にもその分布が認められる。これら一連の設置場所をみると対馬島・壱岐島は別として、必ずしも対外的危機に対応するためのものばかりとはいえないことがわかる。
 さらに、天平二年九月の諸国防人の廃止令以後は、東国出身の兵をもっぱらあてている。その後、廃止と復活を繰り返しながら、しだいに筑紫出身の兵に代えられていくが、防人を東国出身の兵に固執する傾向にあったことも見逃せないことである17。この理由として、まず、大化前代より筑紫は対外関係上、最前線にあり、有事の際には当地から朝鮮半島・中国大陸へ派遣させるため、その兵力を温存するために出兵とは直接関係しない東国出身の兵を防人にしようとしたと考えられる。これに対して、防人の設置場所とその変遷をみると前述のように必ずしも対外的危機に対応するためのものばかりとはいえないことがわかる。東国の地は早くから大和朝廷に掌握され、その軍事的・経済的基盤となっていたし、大化後の壬申の乱においても、旧国造らが、天武側に舎人軍を送っているように公の権力と密接な関係にあった。それに対して筑紫(九州)の国造軍は筑紫君磐井に代表されるように反公権力的エネルギーを強く温存する特徴があり、東国の中央公権力への従属度に比べると大きな差があった。ゆえに筑紫のみ「大宰府」が例外的に残され、また対外防備の実をあげるために、中央政府は東国出身の兵からなる防人の西下を必要としたとも考えられる。この説に従うと、防人の任命が筑紫出身の兵に切り換えられてもよく果たせなかった理由もこの筑紫の特性にあるというようにとらえることも可能になる。