乱後の筑紫の動向

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 広嗣の挙兵は失敗に終わるが、注目すべきことに彼は「怨霊」として歴史の舞台に再び登場することになる。『続日本紀』によると、怨霊と化した広嗣は乱を起こす引き金となった玄昉を天平一八年(七四六)、観世音寺の落成式において暗殺する18。実際には広嗣の霊が一人歩きするはずがないので、広嗣の霊に仮託して玄昉を暗殺した人々がいたことを意味する。玄昉と並んで広嗣に弾劾された吉備真備も時の権力者であった藤原仲麻呂の巧みな人事によって天平勝宝二年(七五〇)に筑前守に左遷され、また俄に肥前守に移される。この人事の影には藤原仲麻呂の単に吉備真備を京から遠ざけたというのではなく、玄昉と同じ運命に会わせようとする思惑があったとされる19
 ところで、筑紫における広嗣の霊を弔う動きがあったのは肥前国においてであった。天平一七年(七四五)、官は肥前国弥勒知識寺に僧二〇口、水田二〇町を与えている20。「松浦廟宮先祖次第幷本縁起」のなかに天平一七年に松浦廟すなわち広嗣の霊廟のために「神宮知識無怨寺」を建立したと出てくる。このことから、天平一七年に官が僧二〇口、水田二〇町を与えた肥前国弥勒知識寺は「松浦廟宮先祖次第幷本縁起」のなかに出てくる広嗣のために建立した「神宮知識無怨寺」がそれに相当すると考えられている。この弥勒知識寺は「知識寺」という名称から人々の知識結によって建立された寺であり、民衆が何らかの形で広嗣の鎮魂のために造った寺ということができる。ここに肥前国における広嗣と民衆との結び付きの一面をしめす。この肥前国民衆の知識結によって造られた弥勒知識寺に官が前述のごとく優遇措置をとったことは、官も広嗣の霊への鎮魂の儀をやらねばならぬような状況が筑紫にはあったことを物語っている。
 天平一七年一一月、大宰府の観世音寺造営のため玄昉が下ってくる21。これは玄昉の左遷ということでとらえられているが、玄昉の大宰府への下向と天平一七年の弥勒知識寺に対してとられた優遇措置とが同じ年に行われていることから、聖武天皇の生母である宮子の病気を治癒したことに示された彼の力(加持祈禱の霊験)によって、肥前国の弥勒知識寺にまつわる広嗣の霊の動きを調伏することが期待されたと考えることもできる22
 結果として玄昉は天平一八年、観世音寺の落成式において暗殺される23。広嗣の霊に仮託して玄昉を暗殺した人々がいたことは肥前国には中央政府にとって反逆者である広嗣を支持する人々が多くいたことも物語っている。
 広嗣が板櫃川の敗戦後、逃亡路を肥前国に選ぶ。その理由の一つとして彼の父親である藤原宇合が天平四年(七三二)に西海道節度使として筑紫に下向し、当地で編集した24その筑紫諸国の風土記を読んでいたとも考えられる。筑紫諸国の風土記と出雲国風土記は別名「天平風土記」とも呼ばれ、前者は西海道節度使、後者は山陰道節度使の設置と密接な関係が指摘されている25。内容として和銅年間に編集された風土記と異なり、城や烽などの記事が認められることから事的色彩の濃い軍事的地理誌となっている。さらに現存する筑紫諸国の風土記のなかでも特に肥前国風土記において反政府分子である「土蜘蛛」伝承が最も多く認められることも指摘されている26。いざ乱を起こして敗戦し、大宰少弐から一変して天皇の命にさからい反逆者となった広嗣はその身を委ねる場所としてその「土蜘蛛」伝承が最も多く認められる肥前国へと逃亡路を選んだとも考えられる。果たして、広嗣は肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)まで敗走するがそれを手助けし、また、刑死した後も彼のために知識寺を建立したのもまさに肥前国の人々であった。このことは見逃してはならない史実である。