一二世紀になると、大宰府機構に変化がみられるようになる。まず、権帥・大弐・少弐などの律令期においては中央から派遣されていた官職が遙任化されてくる。権帥では保安年間(一一二〇~二三)の源重資を最後として赴任者がなくなってしまう。さらに長承元年(一一三二)には「近日大弐・少弐・筑前守皆以て在京す、宰府の中沙汰をする人無し」(『中右記』同年一二月二九日)という状況になる。その結果、実際に現地にいる大宰府の役人たちが事実上大宰府を担っていくことになる。そういう府官層として知られるのは総数約四五ほど確認でき、各々分課的な「所」を作り、政務を分担して処理していくことになる。1
それに伴い大宰府発給文書も変化していく。律令期において発給される文書は「公式様文書」と呼ばれた。それには符・解・移・牒がある。符とは上から下へ、解とは下から上へ、移とか牒というのは同列の機関が相互に交わす文書のことをいう。それが一一世紀に入ってしだいに変化してくる。政所下文・政所牒といったものがでてきて、さらには大宰府庁宣もしくは大府宣と言われるものが出てくる。これらの文書は大宰府を現地で実際に支えている大宰府の在庁官人に宛てたものである。そして、下から上に達する文書として従来の大宰府解が分解して「大宰府在庁解」と「大宰権帥もしくは大弐解」の両者が出現するところにも大宰府機構の変質の様相が端的に表現されている2。当時大宰府が発給した文書をみると、監・典・監代・典代の氏姓には藤原・平・源・大蔵・紀・安部などの中央から赴任してそのまま土着したと思われる人々、そして秦・豊国・宗像・建部などの大化以前にさかのぼる土豪(筑紫の豪族)の系譜をひく人々が連署しているのがわかる。