「交易」と鴻臚館

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 新羅国との国交が跡絶えるのは宝亀一〇年(七七九)であるが、それと入れかわるように新羅国の商人が大宰府に来航する。ときには海賊行為を働いたという大宰府からの報告が多くなる。承和二年(八三五)には壱岐島から新羅商人の渡来が多く、我が国をうかがうので「防人」を設置してほしいと訴えている。承和七年(八四〇)に使いを大宰府に派遣した張宝高は新羅商人の統合者で、新羅国の衰退に乗じて手広く貿易活動を展開していた。中央貴族たちはかれらを「新羅海賊」とみなしていたが、大宰府の管理貿易が後退しつつあった状況にあり、それに伴って新羅商人と筑紫の土豪や富豪との民間貿易を認めざるを得ない不安感があったためといわれている。貞観一一年(八六九)、新羅海賊が荒津に停泊していた豊前国の年貢絹綿船を略奪する事件が発生する。中央政府は翌年(八七〇)筑紫(九州)に居住していた新羅人ら三〇余人が海賊に内通していたとして武蔵・上総・陸奥に移している。
 唐国との国交が跡絶えるのは遣唐使が廃止される寛平六年(八九四)である。唐商は新羅商人よりおくれるものの、嘉祥二年(八四九)、「大唐商人」五三人が大宰府に来航してから、次第に筑紫に訪れるようになる。新羅・大唐商人の来航は律令の「蕃国」の儀礼の枠外にあった。まさに律令=法の網の目のすきまである。
 交易の場所は「筑紫館」すなわち鴻臚館であった。当初は唐や新羅の商船が大宰府に来着するたびに、中央政府は交易唐物使を大宰府に派遣し、交易にあたらせたが、延喜九年(九〇九)に交易の管理を大宰府に委譲した。これを境に鴻臚館は日本で唯一の対外貿易の拠点となる。それと同時に鴻臚館は政府の公的機関から外国商人たちの対私人の応接機関へと変質していくのである。政府との貿易において、代価の支払いを引き伸ばしたり、財政難になると府庫の砂金や綿で立替払いをさせたので府官が不正を働くようになり、交易を独占した府官の中に財物を蓄える者も出現する。なお、天慶四年(九四一)に藤原純友が大宰府を襲った目的は「大宰府累代の財物」を奪うためであった。一方、民間貿易では貴族や富豪たちが競って唐物を求めたために、値段は上がる一方であった。
 このように律令体制の弛緩に伴い、一〇世紀頃から寺社・貴族らが日宋貿易に参入する。大宰府による貿易独裁体制は崩壊し、一一世紀末には文献資料から筑紫の「鴻臚館」の名は消滅することになる。