一一世紀の初頭に公式様文書にかわる大宰府政所下文をはじめとする新たな文書形式の出現と、一二世紀初頭に公式様文書が消滅することから、この変遷の背後には大宰府機構の変質があり、所司官人と大宰府官長(権帥・大弐・少弐などの官職)の遙任慣例化による府官との分離が考えられている。さらに、中央から赴任してそのまま土着、もしくは大化以前にさかのぼる土豪(筑紫の豪族)の系譜をひく人々が監典などの府官として在地豪族化する傾向にあり、「府中有縁之輩」として存在し、各々分課的な「所」を作り、政務を分担して処理していくことになる。
その府官や諸国在庁官人を家人化(与党勢力化)することによって平氏は大宰府や九州支配を強めていく。まず、平正盛は元永二年(一一一九)、鳥羽上皇の院領肥前国藤津荘の荘司平直澄を討伐して名声を得る。その随兵には九州の者が多かった。このことは、在地豪族を結集して彼らとの間に主従関係を結んでいたことを示唆する。平氏は日宋貿易にも関与してその経済力を高めていく。そして、保元三年(一一五八)、平清盛が大宰大弐に任ぜられることによって大宰府や九州を支配する公的地位を得ることになる。
その府官の一つとして大蔵氏4がいる。大蔵氏は豊前・肥前・肥後・筑前・筑後の各国に分布し、海軍力を組織し、貿易にも関与していた。一一世紀中頃より大監を世襲していく。代表的な人物として、大監原田種直、豊前国在庁官人板井種遠がある。前者は大蔵種材の子孫であり、広大な所領を保有していた。後者も大蔵氏一族であった。このほか平氏が家人化した府官としては、遠賀川河口近くに所在した山鹿荘に拠る山鹿秀遠(藤原氏一族の有力在地領主)、肥前の松浦党、権少弐宇佐大宮司宇佐公通などがいた。またこのほかに社寺勢力として、安楽寺・箱崎宮・宗像宮なども家人化して、その支配下におく。なお、在庁官人板井種遠が拠点としていた豊前国には瀬戸内交通の要衝である門司関が所在する。これを維持するための経済的な基盤として「門司関料田」があり、それは平家の没官領であったことがわかっている。つまり、平氏は九州の海上交通の要衝である門司関を牛耳り、九州支配の一拠点としていたと考えられる。平氏一門の九州における所領は九州九ヵ国二島のうち六ヵ国におよび、豊前国門司関をはじめとする対外的要衝の地をもその支配下に入れていた。