藤原純友の乱の大宰府襲撃に関する史料は一〇世紀中葉における大宰府の軍事動員のありかたについて示唆している。
藤原純友の乱と時を前後して起こった平将門の乱の場合、平将門に従属した武力は『将門記』によると、文屋・多治・他田など、あるいは早くから土着していたと考えられる豪族たちはいずれも桓武平氏に従属している。また、独立して行動した豪族は平氏のほか、源護一族・藤原秀郷・玄明以下、源平および藤原氏にほぼ限られている。これからわかるように東国では辺境軍事貴族である源平および藤原氏等のもとに地方豪族の組織化が進行していた。
一方、『日本紀略』・『扶桑略記』によると、大宰府における乱の鎮圧に動員されたのは小野好古・源経基・藤原慶幸・大蔵春実らの中央軍事貴族であり、地方豪族の起用がほとんどみられない。このことは一〇世紀中葉、大宰府においては東国のように辺境軍事貴族による地方豪族の組織化が進行しておらず、また、「武士」につながる軍事集団が未成熟であったことも意味している1。しかしながら、乱の鎮圧に参戦した大蔵氏は大宰府の府官として土着化していく2。このことは、「武士」につながる軍事集団が大宰府にも発生したことを意味し、また藤原純友の乱がその大きな要因の一つとなったのは言うまでもない。