乱と「壁」

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 藤原純友の乱に関する史料で留意すべき点が二点ばかりある。
 その一つは『扶桑略記』にある「更所儲軍士出壁防戦」という記述である。問題は「軍士出壁防戦」の「壁」についてであるが、想定可能なものとして「水城」と「築地」の二つがあげられる。「水城」は白村江の敗戦後に大宰府政庁を防衛するために造られた羅城の一部であり、藤原純友の乱の時にも存続していたと考える。この「壁」を水城ととらえると藤原純友の乱の際、賊徒は水城の外(博多津)側で大宰府の軍士と戦いこれを撃破して大宰府市街地に侵攻。そして財物などを略奪、放火して大宰府政庁などを焼失させたことになる。
 次に、この「壁」を築地ととらえると賊徒のためにいち早く水城は破られ、大宰府政庁周辺にあった築地の外で大宰府の軍士は賊徒と戦い撃破されたことになる。大宰府は大宰府政庁を中心として条坊プランによる都市計画がなされていた。発掘調査で当時の様子が明確になりつつあるが、都市計画の基準である条坊に相当する遺構には築地は今日まで確認されていない。このことから「壁」を築地ととらえると大宰府政庁を取り囲んでいた築地ということになる。
 「壁」は果たして「水城」と「築地」の二つのうちいずれであったのか。今後に残された課題ともいえる。今後の発掘調査に期するところである。