乱と逃亡路

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 藤原純友の乱に関する史料で留意すべき点の二つめは賊徒らの逃亡路についてである。
 『扶桑略記』・『将門純友東西軍記』によると、賊徒は「壁」の外で大宰府の軍士と戦いこれを撃破して大宰府市街地に侵攻。そして財物などを略奪、放火して大宰府政庁などを焼失させる。その後、賊徒は御笠川を下って博多津にいたり官軍と戦い敗走する。その際、純友は「乗扁舟、逃帰伊予国」と伝えていることから博多津より舟を利用して本拠地の伊予国まで逃げ帰っていることがわかる。賊徒は海賊であることも考えると純友は海路を利用して本拠地の伊予国まで逃げ帰ったと想定できる。では、ほかの賊徒はいかようであったであろうか。
 『本朝世紀』天慶四年(九四一)一一月二九日条に、純友の次将であった佐伯是基が日向国で生け捕りにされ、大宰府から京に送られていることを伝えている。この史料によると、賊徒は天慶四年一一月六日に豊後国海部郡佐伯院を襲撃している。そしてその足で日向国に向かっている。まず、この賊徒は藤原純友に呼応しているが、大宰府侵攻には加わらず在地で乱を起こした豪族である可能性をぬぐいさることはできない3。純友が「壁」の外で大宰府の軍士と戦いこれを撃破して大宰府市街地に侵攻。そして財物などを略奪、放火して大宰府政庁などを焼失させるものの、次将藤原恒利らの内応者はすでに出ており、純友軍の規律はかなり乱れていた。その後、賊徒は御笠川を下って博多津にいたり官軍と戦って敗走するのが天慶四年五月一九日。佐伯是基らが豊後国海部郡佐伯院を襲撃したのが天慶四年一一月六日。このことから佐伯是基らは大宰府市街地に侵攻後、財物などを略奪、放火して大宰府政庁などを焼失させたのちそのまま純友軍を離脱したか、もしくは博多津で敗走した純友とともに逃亡して豊後国海部郡・日向国で再蜂起した残党とも考えることができる。
 その賊徒の逃亡路であるが、豊後国海部郡から日向国へは官道もしくは海路を利用したと推論可能であるが、博多津もしくは大宰府から豊後国海部郡へのルートが不明である。そこで資料的な限界のために推測の域は出ないが、強いて想定すると想定可能のルートとして博多津からの海路のほかに、大宰府から蘆城駅家を通り、筑前国穂波・嘉麻二郡を経て豊前国田河郡、そして豊前地方に至る『続日本紀』天平一二年(七四〇)一〇月九日条に見られる「豊前路」が考えられる。
 『万葉集』にもその「豊前路」に関する記述があるので紹介することにする。
 大伴旅人は神亀五年(七二八)頃から中納言で大宰帥を兼任して大宰府に在ったが、天平二年(七三〇)には大納言に任じられたので、大宰帥を兼任のまま帰京することになる。大伴旅人本人は天平二年一二月に水城を出て帰京の旅に出るが、府吏と共に児島という遊行女婦が送っている。大伴旅人本人は大宰府道から山陽道に向かっていることから、水城の東門を出たと推定される。その一方、天平二年一一月「傔従等、別に海路を取りて京に入る」(巻一七-三八九〇~三八九七題詞)とあることから、従者たちは一足先に出発し、豊前路を経由して瀬戸内海岸に出て、おそらく豊前国京都郡草野津から乗船したと考えられている4
 佐伯是基らの残党はその「豊前路」を通り、豊前地方を経由して豊後国海部郡に至り、そこで蜂起したのではなかろうか。
 ところで、この「豊前路」に関して注目すべき伝承が筑前国穂波郡に残っているので紹介したい5。伝承の内容は以下のようになっている。
 宝満山にこもった純友の兵は追われて穂波へ落ちて来、同じく黒埼より敗走してきた純基の兵と合し大将陣山に陣どり、追捕使の部下源満中(史実では父経基)と対峙する。その際、源満中は天道に祈り、賊徒を撃破したという。現在福岡県嘉穂郡穂波町天道の天道の地名の由来にもなっている伝承でもある。
 史実ではないが、「豊前路」に関して注目すべき純友伝承ではなかろうか。純友以外の賊徒の逃亡路は史料の制約もあり不明なことも多い。逃亡路については海路ばかりではなく陸路も考える必要がある。今後の研究に期するところである。