寛仁三年(一〇一九)三月、中国東北部や沿海州に住む女真族が兵船五十余隻をもって朝鮮半島の東岸を荒しながら南下し、対馬・壱岐・松浦・怡土・志摩の各地を侵し、さらに博多湾に侵攻する。この時の状況については『小右記』、『日本紀略』、『朝野群載』などの史料に記録されている。
まず、この事件の経過について触れることにする。刀伊は寛仁三年三月二八日、対馬に上陸し「殺人・放火」などを行っている。同年四月七日には壱岐に上陸し「島司及島内人民、皆被〓略」(『朝野群載』)でもわかるように「島司」まで殺害される有様であった。同年四月七日には壱岐から筑前国怡土郡・志摩郡・早良郡などへも侵攻し、人・物を略奪し民宅に放火している。その刀伊の侵攻に対して筑前国怡土郡では多治久明、筑前国志摩郡では文屋忠光が活躍し撃退させている。しかし被害も大きかった。刀伊は筑前国怡土郡・志摩郡から能古島へ移り能古島を占領する。同年四月九日、刀伊は警固所を襲撃した。これに対し大宰権帥であった藤原隆家は前少監大蔵種材・藤原明範・散位平爲賢・平爲忠・前監藤原助高・傔杖大蔵光弘・藤原友近らを警固所に遣わし防戦させ刀伊を撃退する。同年四月一一日未明、刀伊は筑前国早良郡から同国志摩郡船越津へ移動するが、これより先に大宰府側は精兵を海路と陸路とに分け志摩郡船越津へ派遣する。同年四月一二日酉の時に海路と陸路とに分けてあらかじめ派遣していた精兵が合流して刀伊と戦い撃退する。大宰府側は攻撃の手を緩めず船三十余艘をもってさらに厳しく追撃。同年四月一三日、刀伊は肥前国松浦郡まで退却。ここでも略奪を行うが、前肥前国介の源知が肥前国松浦郡内の兵士を率いて奮戦し撃退する。刀伊は肥前国での戦いでも不利となり、ついに国境外に逃げ去ることとなる。