来襲の目的

656 ~ 657 / 761ページ
 『小右記』、『日本紀略』、『朝野群載』などの史料によると、刀伊の入冦による被害は対馬・壱岐および能古島の三島と北部九州の沿岸地方に限定されていたが、後日の報告によると、殺害された者は総計約四七〇人、連れ去られた者一三〇〇人、略奪された牛馬三八〇頭に及んでいた。牛馬は食料となり、捕えられた人は、壮健な者は船に追い乗せられ、年寄と児童は海中に放り投げ込まれるかもしくは斬り殺されたと伝えている。後に高麗国などによって送還された人数は三〇〇人程であった。
 こうした状況から、刀伊軍の来襲の目的は労働力としての人間(奴隷)と、穀類などの食料の略奪であったことが想定される。
 また、同史料によると、刀伊賊の船は五〇艘、一船の楫(かじ)は三〇~四〇であり、来襲者は二七〇〇人程度と推定されている。二日間で急増された大宰府の兵船とは比較にならない大船であり、外洋の航海に耐え得る構造船であったことが推察される。