『小右記』には、刀伊賊の戦術と大宰府軍の戦術などに関する記述がある。
「(前略)合戦場毎人持楯、前陣者持鉾、次陣持大刀、次陣弓箭者、箭長一尺余許、射力太猛、穿楯中人、府軍被射〓者只下人也、為将軍者不被射、乗馬馳向射取、只恐加不良声引退(後略)」(『小右記』寛仁三年四月二十五日条)
「(前略)合戦場、人毎に楯を持ち、前陣は鉾を持ち、次陣は大刀を持つ。次陣の弓箭は箭の長さ一尺余り許り、射力は太だ猛し。楯を穿ちて人に中る。府軍射〓された者只下人也。乗馬し馳せ向ひ射取る為に将軍は射られず。只加不良の声を恐れ引き退く(後略)」
この史料によると、刀伊軍は各人楯を持ち、前陣は鉾、次陣は大刀、弓箭による戦陣を組み、弓矢を中心とした集団戦術をとっていたことがわかる。恐らく、一三世紀の蒙古襲来の時と同様に、鼓(つづみ)・鉦(しょう)による集団指揮がなされていたと推察される。
刀伊軍に対して、日本軍(大宰府軍)も弓矢が中心の矢戦であったが、「府の止む事なき武者」たちのそれは馬上での騎射であり、それが「異国軍を多く射殺」したのに対して、歩射の刀伊軍による損害は「府軍の射殺された者ただ下人」ばかりであった。
このことから、日本軍(大宰府軍)は特定階層の騎馬武者(将軍)とその下人から編成されていたことが想定され、特定階層の騎馬武者(将軍)は馬上で騎射戦をやっていたことがわかる。また、この合戦では「加不良」(鏑矢)も使用され、刀伊軍はその鏑矢に驚いて引き退いたことも伝えられており、日本軍(大宰府軍)の戦闘方法は既に基本的に中世化していることを指摘することができる1。