次に、「刀伊の入冦」に関する史料から一一世紀初期における大宰府の武力について触れてみたい。天慶四年(九四一)、藤原純友の乱に際して大宰府は純友軍の攻撃を受け、「儲くるところの軍士、壁を出て防戦2」(『扶桑略記』)したにもかかわらず惨敗を喫し、宝物などを略奪された上、放火によって無残にも焼亡するにいたった。このことから当時の大宰府の軍事力が弱体であったことが想定される。しかし、寛仁三年(一〇一九)に発生した「刀伊の入冦」の際には、大宰権帥藤原隆家の統率の下で府官以下の武人たちは奮戦し刀伊を撃退するのに成功している。幸いにもこの事件の際に動員された大宰府の軍事力について詳細な記録が残存しているので取り上げることにする。
この合戦に参戦した武力の特色は「府の止む事なき武者」と称された府官系列の軍事貴族と、在地の住人の二者に大別されることである。府官系列の軍事貴族は大蔵種材・平爲賢を始めとする大蔵氏や平姓の武士たちがそれにあたる。在地の住人は多治久明・文屋忠光・財部弘延らである。藤原純友の乱とほぼ同時期におきた平将門の乱以降、東国においては軍事貴族が大半を占めていたが、西国においては在地の住人の活躍がみられるところに東国との相違点がある3。
なかでも、前少監大蔵種材は藤原純友の乱で活躍した大蔵春実の孫にあたる。大蔵春実は藤原純友の乱に際して大宰府に下向するが、乱後は一時中央軍事貴族として活躍する。その子大蔵種光は大宰府大貫主に任じられたと伝えられ、府官化の方向を示す。大蔵種光の子である種材も刀伊賊撃退の恩賞で壱岐守となり、以後子孫は府官を世襲することになる4。
また、肥前国において刀伊賊撃退の恩賞があった前肥前国介源知も軍事貴族と考えられる5。この前肥前国介源知をはじめ、延久元年(一〇六九)に土着した摂津渡辺党出身の源久、長和五年(一〇一六)に見える肥前守源聞などが肥前松浦党の祖とする諸説があるが、いずれにせよ肥前松浦党の祖も一一世紀初頭に国司として下向したのを契機に土着した軍事貴族と考えるのが妥当であろう6。
以上の経過から大蔵氏などの辺境軍事貴族が本格的に大宰府・北部九州に土着するようになる一つの画期は一一世紀初頭であったことがわかる。この理由として大宰府・北部九州においては東国のように早期から辺境軍事貴族の下向の必要性がなく、藤原純友の乱・刀伊の入冦に相当する大乱を経験していなかったためだと考える。一〇世紀前期における藤原純友の乱の追討に際して大宰府・北部九州の辺境軍事貴族の動員が見られず、中央から派遣された追討軍が大きな役割を果たした背景はここにある。東国における平将門の乱をはじめとする諸兵乱と同様に、大宰府・北部九州においては藤原純友の乱、殊に「刀伊の入冦」が「兵の家」を成立させる大きな契機となったと考えてよい。