「刀伊の入冦」の主な舞台となった糸島地方には現在、今津(福岡市)から加布里(前原市)にかけて幅一キロメートルほどの湿地帯(糸島低地帯)がある。宝永七年(一七一〇)、貝原益軒は『筑前国続風土記』のなかで「この湿地帯はかつて海峡が通り、古代の怡土と嶋(志摩)は海によって分断されていた。そのために、この海峡を境にして「嶋郡」と「怡土郡」とに分割されていた。」と説明している7。以後、「糸島水道」説は多くの人々に支持されていくことになる。その「刀伊の入冦」に関する史料のなかに、当時の糸島半島の地形について示唆している部分がある。この史料から一一世紀初期における糸島半島の地形について触れておこう。
寛仁三年(一〇一九)三月、中国東北部および沿海州一帯を本拠とする刀伊(女真族)が兵船五十余隻をもって朝鮮半島の東岸を荒らしつつ、南下し、対馬・壱岐・松浦・怡土・志摩(嶋)の各地を侵し、さらに博多の警固所まで襲撃した。これに対し藤原隆家は刀伊国賊徒追撃軍を陸路・海路と分けて編成し、志摩郡船越津において刀伊賊を撃破する。その海路軍の記述に「先是分遣精兵、豫令相待8」(『朝野群載』)とある。この史料から海路軍は陸路軍より先に出発し船越津で合流したことがわかる。海路軍が陸路軍より先に出発した理由として、糸島半島沿岸部に沿って進むルートを通る必要性があり、陸路軍よりも時間がかかることを予測していたためだと思われる。もし糸島水道が当時存在していたならば海路軍は陸路軍と同時に出発して一緒に轡(くつわ)を並べて追撃できたのではなかろうか。
若干時期は遡るが、奈良時代において遣新羅使・遣唐使一行も糸島半島を回って松浦へ航行したようだ。天平八年(七三六)、遣新羅使の船が福岡湾の西の志麻郡「韓亭」(現在の唐泊)で三日以上も風待ちして、志麻郡の「引津亭9」(現在の引津湾)に向けて出発している。「韓亭」で三日以上も風待ちしたことは糸島半島を廻って「引津亭」に入る必要性があったのであろう。当時、糸島水道が存在していたならばわざわざ韓亭で三日以上も風待ちする必要はなかったと考える。
そして糸島水道想定域中心部に志登神社が所在し、『延喜式10』には式内社としてその記述がみられる。志登神社周辺には支石墓群・平安時代の溝11・道路状遺講12など検出された志登遺跡群13の分布がみとめられることから、当地は、弥生から平安時代にかけて陸地であったことがわかる。
さらに、最近、縄文時代の海面変動の分析や地質・貝化石の分布調査、遺跡の発掘調査成果をもとに検討を加えたところ、縄文時代以後では今津(福岡市)と加布里(前原市)の両方向から大きく潟状の内海が入り込んでいたものの、泊(前原市)~志登(前原市)では南北に陸地としてつながっていた可能性が高いことがわかってきた14。このことからも「糸島水道」の存在に関してはなお、検討の余地があり、今後の調査・研究に期するところが多い。