『小右記』寛仁三年六月二十九日条には、大宰府が刀伊賊のために蒙れる筑前国及び対馬・壱岐島の被害及び、勲功者の功状を中央へ奏上していることを伝えている。なかでも、『小右記』寛仁三年八月三日条の大宰府の対馬嶋判官長峰諸近への処分は注目に値する。
「(前略)謹検案内、異国賊□□□徒刀伊高麗其疑未決、今以刀伊之被撃、知不高麗之所為、但新羅者元敵国也、雖有国号之改、猶嫌野心之残、縦送虜民□□□不可力為悦、若誇勝戦之勢偽通成好之便、抑諸近所為先後□□□不当力也、越渡異域、禁制素重、況乎賊徒来侵之後、誡□(云)、以先行者為与異国者、而始破制法而渡海、無書牒而還、召(若カ)以将来虜者優而無坐其罪、恐不後憲、愚民偏思法緩輙渡海、為懲傍輩禁候其身、須待高麗国使申上其案内(後略)」 (『小右記』寛仁三年八月三日の大宰府解)
「(前略)謹んで案内を検するに、異国の賊徒、刀伊か高麗か、その疑いいまだ決せざるも、今、刀伊の撃たるるをもって、高麗の所為ならざるを知る。ただし、新羅はもと敵国なり。国号の改まるありといえども、なお野心の残れるを嫌う。たとい虜民を送りても悦をなすべからず。もしくは戦いに勝つの勢いを誇りて、偽りて好みをなすの便を通ぜん。そもそも諸近の所為は先後不当なり。異域に越渡するは、禁制、もとより重し。いわんや賊徒来侵せるの後、誡めて、先行者をもって異国に与する者となす、というにおいてをや。しかるに始めて制法を破りて、渡海し、書牒なくして還る。もし虜者を将来せるをもって、優してその罪に坐するなければ、おそらくは後憲せず。愚民、ひとえに法の緩むを思い、たやすく海を渡らん。傍輩を懲らさんがため、その身を禁候し、すべからく高麗国使、その案内を申し上ぐるを待つべし(後略)」
この史料によると、対馬嶋判官長峰諸近は刀伊賊のために捕らえられた者をつれかえるため高麗国に渡るが、大宰府は彼の行動にたいして禁固の刑に処している。その理由として「破制法而渡海」ことをあげている。このことから対馬から朝鮮半島・大陸へは「渡海の禁15」があったことがわかる。さらに同史料によると「渡海の禁」を緩めると対馬の人々は朝鮮半島・大陸へ臨接しているため自由に渡海し、有事の際には内応する危険性を持っているという認識を大宰府側はもっていたようである。
時期は遡るが、古くは『魏志倭人伝』に「対馬」の記述がある。『魏志倭人伝』によると「乗船南北市糴」と記述があり、弥生時代から対馬の人々は朝鮮半島および九州と盛んに交流していたことがわかる。
次に、「対馬」を含む「肥前国」に対する特別な認識は『肥前国風土記』にもみられる。この『肥前国風土記』は別名「天平風土記」とも言われ、日本と新羅との間に国交のありかたをめぐり国際的緊張が走った天平四年(七三二)に作成されたと考えられている16。天平四年、新羅征討が計画され、その一環として、西海道節度使・山陰道節度使・東海道節度使・東山道節度使が設置される17。『肥前国風土記』には「兵要地誌的内容」として、城や烽などの西海道節度使に関係ある記事があることから西海道節度使であった藤原宇合が中心となって『肥前国風土記』が編纂されたと考えられている18。また、内容としては和銅年間に編纂された『常陸国風土記』などとは異なり、軍事的地理誌としての色彩が濃いと指摘されている。さらに、『肥前国風土記』には反政府分子である「土蜘蛛伝承」が現存している風土記のなかでもっとも多く認められ、その分布の大部分が肥前国の臨海性に富む沿岸部であることから「海人」であったと考えられている19。このことを踏まえて考えると、反政府分子である「土蜘蛛」として認識された肥前国沿岸部の「海人」たちはいざ朝鮮半島と日本が対立関係になった場合、朝鮮半島側へ内応するような不穏な動きがあったのであろう。そのことを踏まえて西海道節度使であった藤原宇合は新羅側に内応する危険性があった「海人」たちを反政府分子である「土蜘蛛」として『肥前国風土記』に記載したと考えることもできる。
また、『続日本紀』天平宝字五年(七六一)一一月丁酉条にも「対馬」および「肥前国」に対する認識を示唆する記事がある。これは藤原仲麻呂政権下の新羅征討計画に基づく節度使設置の記事であるが「水手七千五百二十人、数内二千四百人肥前国、二百人対馬嶋」となっている。つまり肥前国・対馬嶋は、「水手」のみ動員され、しかも西海道節度使ではなく東海道節度使の管轄下にあった。この不可解な扱いについて肥前国・対馬嶋の人々に兵器を持たせないようにしつつ、「水手」としての長所を活用する巧みな政策と理解することも可能となり、これも「対馬」に対する認識に基づく政策の一つであろう20。
さらに、「対馬」には防人21が置かれ、金田城も築城22される。このことからも「対馬」は日本にとって「国境の島」であり、同時に軍事的拠点であったことを改めて「刀伊の入冦」をとおして垣間(かいま)見ることができるのである。
なお、『小右記』寛仁三年六月二九日条における「渡海の禁」に関する記述は、最初に山内晋次氏が指摘23し、それを踏まえて榎本淳一氏がさらに考察を加えている24。榎本氏は「異国に与する」の部分を高麗国へ違法的渡航したことの別の表現と理解している。しかし、『魏志倭人伝』・『肥前国風土記』・『続日本紀』天平宝字五年一一月丁酉条を考慮にいれると、古代史のなかで、日本と朝鮮半島が緊張関係になった際の「対馬」を含む「肥前国」の動向、なかでも肥前国の「海人」たちの動向を伺うことができ、この『小右記』寛仁三年六月二九日条における「渡海の禁」に関する記述も中央政府の「対馬」に対する認識を示唆していると考えられる。