班田農民の没落によって律令国家は主として農民兵を主力とした「軍団制」の維持が困難となり、地方豪族・有力家父長層をあらたに軍事基盤とする地方軍制にかえる。それが「健児制1」である。まず、三関国、辺要地に現れ、体制的には天平宝字六年(七六二)の制や、延暦一一年(七九二)の制を画期として確立することになる。
延暦一一年に「軍団制」が廃止されるのに伴い、従来の兵士にかえて、国別に員数を定めて計三一五五人の健児が選抜・配置された。総数は三〇〇〇~四〇〇〇人。延暦以前の健児は主に郡司子弟の弓馬に練達した者から選抜されている。選抜された健児は田租と雑徭の半分が免除されるという特権が与えられている。このことから健児軍を上代の騎兵隊と考える説もある。
延暦期以降については軍団制下の兵士にかわる武力として準備され、勇健さを条件として国内の勲位人が起用されることになる。しかし、徴発忌避の動きは強く、結果としては同じ勲位人でも老疾勲位人によるまったく士気を欠き、武力的にも期待しがたいものとなる。
健児は国衙の在庁諸分課の一つである健児所に配属されていた。健児所の職務としては国府兵庫の守衛、儀式・神事の供奉、鋳銭司旧銭などの雑物の逓送などがある。ところが、国司館の宿直、神事の供奉が「国侍・館侍」などの国司の私的従者によって成されるようになると健児所の役割は次第に縮小していくことになる。一〇世紀以降の史料によると、不佃田解文使や馳駅解文使あるいは犯人逮捕のための入部を許可する国符を持つ使者として登場している。このことから国司文書(国解・国符)の伝送にかかわっていることがわかる。また院政期以降においては「健児非違両直」「健児并検非両使」と称され、荘園の収公、不入荘園の入部など、検非違所とともに検察機能にもかかわっていた。