律令制下において軍団とともに地方軍制の大きな要の一つとして防人がある。この防人も国内情勢の変化に伴いその体制転換を余儀なくされる。
大同元年(八〇六)一〇月、大宰府に近江国から夷俘(俘囚)六四〇人が移される。大宰府で防人にするためであった。専当官として「国ごと」に掾以上を充てることを命じている。この夷俘(俘囚)六四〇人の配置先は対馬島の要害の地と考えられている。対馬島において、延暦一四年(七九五)に壱岐・対馬を除く防人が防人司とともに廃止され、延暦二三年(八〇四)には壱岐でも筑紫防人が引き上げて島兵士の制に変えられていた。延暦二三年に配置されて停廃された四一一人も対馬の防人であり、東国諸国から送り込まれた兵士であった。承和八年(八四一)に対馬島が大宰府に提出した解文のなかに「延暦年中、東国人を以て防人に配す」とあることから延暦年間(七八二~八〇五)まで東国諸国から送り込まれた防人が設置されており、対馬島だけに残されていた東国防人の維持が困難となり、大同元年、ついに俘囚を対外防衛の最前線に引きずり出すこととなる2。
この「俘囚」であるが大宰府のみならず諸国に配置されている。「筑紫」においては、神亀二年(七二五)すでに陸奥国の俘囚五七八人が配されている。神亀二年は大隅国守殺害事件が起きた養老四年(七二〇)の五年後にあたり、筑紫(大宰府)は隼人が反政府的行動を起こした後の不安定な状態にあった。『続日本紀』養老七年四月条には「日向・大隅・薩摩の三国の士卒、隼賊を征討して頻りに軍役に遭い、兼ねて年穀登らずして交々飢寒にせまれり」とあることからも軍事的、経済的にも不安定な状態にあったことがわかる。したがって、養老七年(七二三)の二年後に陸奥国より派遣された神亀二年の「俘囚」は大宰府の防衛の補充要因であったと考えられている。ただし、神亀二年の「俘囚」の設置は筑紫のみならず伊予国にもなされている。この理由として、伊予国は地理的に豊予海峡をはさんで筑紫と隣接し、そして防人が不在であったことから瀬戸内海の航路を防衛するために伊予国にも「俘囚」を辺軍としたとする説もある3。
以上、奈良時代の律令政府は当初の理念として対外的な防衛に東国出身の兵からなる防人を充てようとしていた。ところが、国内事情の変化により、次第に東国出身の兵からなる防人の維持が困難となってくる。そこで、「王民」として教化・組織すべき国内の蝦夷・隼人に対しては「俘囚」を辺軍として充てるようになる。それが平安時代になると隼人は落ち着くものの、蝦夷の抵抗は激化し、その防衛に東国の人々を充て、また移住させたりして蝦夷の教化を押し進めるという背景があり、中央政府は大同元年には「俘囚」を対外的な要塞の地である対馬島にも設置することとなる。