貧窮問答歌

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 万葉歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)(六六〇~七三三年)が、八世紀初めに詠んだ長歌である通称「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」が『万葉集』巻五に所収されている。九州の筑前国に国守として赴任した時につくられたものともいわれる。国内を巡視した時の見聞が反映されたものかとも思われるその内容は、里長(郷長)からの過酷な税取り立て状況、人々の貧しい暮らしぶりなどを貧者の問答形式で詠んだものであり、当時の衣食住を推測させる。『万葉集』にあるこの歌から、古代の人々のくらしを垣間(かいま)見ることができる。
 892 貧窮問答の歌一首 短歌を併せたり
 風雑(まじ)へ 雨降る夜(よ)の 雨雑(まじ)へ 雪降る夜(よ)は 術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取(と)りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 鬚(ひげ)かき撫でて 我(あれ)を除(お)きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま) 引き被(かがふ)り 布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すら 我(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢(う)ゑ寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何(いか)にしつつか 汝(な)が世は渡る
 天地は 広しといへど 吾(あ)が為(ため)は 狭(さ)くやなりぬる 日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為(ため)は 照りや給はぬ 人皆か 吾(あれ)のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並(ひとなみ)に 吾(あれ)を作(つく)るを 綿も無き 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)の如(こど) わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ 肩にうち懸け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕(まくら)の方(かた)に 妻子(めこ)どもは足(あと)の方(かた)に 囲(かく)み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣懸(か)きて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて 鵺鳥(ぬえどり)の 呻吟(のどよ)ひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端截(はしき)ると 云へるが如く 楚取(しもとと)る 里長(さとをさ)が声は 寝屋戸(ねやと)まで 来(き)立ち呼(よ)ばひぬ 斯くばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道
 
 893 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども
    飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
    山上憶良頓首謹みて上る  (『万葉集』巻五892・893)
 
【口語訳】
 (貧者の問い)
 風まじりに雨が降り、その雨にまじって雪も降る、そんな夜はどうしようもなく寒いから、堅塩を少しずつなめては糟湯酒をすすり、咳をしては鼻水をすすりあげる。さして生えているわけでもない鬚を撫でて、自分より優れた人はおるまいと自惚れているが、寒いから麻でつくった夜具をひっかぶり、麻布の袖なしをありったけ重ね着しても、それでも寒い。こんな寒い夜には、私よりももっと貧しい人にとってその親は飢えてこごえ、その妻子は力のない声で泣くことになろうが、こういう時には、どうやってお前は生計をたててゆくのか。
 (窮者の答え)
 天地は広いとはいうが、私にとっては、狭くなってしまったのだろうか。日や月は明るく照り輝いて恩恵を与えて下さるとはいうが、私のためには照ってはくださらないのだろうか。皆そうなのだろうか。それとも私だけなのだろうか。たまたま人間として生まれ、人並に働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、海松のように破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、低くつぶれかけた家、曲って傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、父母は枕の方に、妻子は足の方に、自分を囲むようにして、悲しんだりうめいたりしており、かまどには火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がはって、飯を炊く事も忘れたふうで、かぼそい力のない声でせがんでいるのに、短いものの端を切るということわざと同じように、笞を持った里長の呼ぶ声が寝室にまで聞こえてくる。世間を生きてゆくということはこれほどどうしようもないものなのだろうか。
 この世の中をつらく身もやせるように堪え難く思うけれども、どこかへ飛んで行ってしまうこともできない。鳥ではないから。
 注=堅塩→固まりになっている粗製の塩。上質の塩(沫塩)の対表現。糟湯酒→酒糟を湯に融かした酒。麻衾→麻でつくられた粗末な夜具。布肩衣→麻布製の袖無し服。作る→耕作する。わくらばに→たまたま。海松→海草の一種。甑→米を蒸す道具。伏廬→屋根が低くつぶれたような家。曲廬→曲がって傾いた家。