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 『万葉集』に次の歌がある。
 「伊勢の白水郎の朝な夕なに」(『万葉集』巻一一・二七九八)
 こういった歌より、食事は朝と夕の一日二食であったと推測される。二食の献立は、貴族では、平城宮にほど近い長屋王家の木簡で食に関する知見が得られている。律令体制下における歴然とした身分格差がかいまみられる。貴族の食事は品数豊富で、食器は金属器、漆器が用いられた。下級役人では、普段の主食は白米に野菜・海草の一汁。その調味料は主として塩。醤・酒粕も用いられた。一般の人々では、食事の品数がわずかで、食器も素朴なものであったと考えられる。主食は玄米に一汁。時々海草が加わった程度の質素なもので、労働の激しい人々はその間に間食をとっていたことが考えられる。
 箸(はし)で食事をとるのは我が国の伝統的なものと思われがちだが、箸の使用は大陸から伝来した金属製箸に由来する。奈良時代に、箸が普及し、朝夕二回の食事がとられた。藤原宮や藤原京では木箸は出土していないとされる。発掘調査でみつかるのは、平城宮の時代以降のものからである。檜や杉を小さく割った棒状のものが発見されている。九州では、三宅(みやけ)廃寺(福岡市)、下中杖(しもなかつえ)遺跡(佐賀県)で青銅製の箸や匙(さじ)が出土している。
 箸の使用が普及する理由には、米の変化にも要因があるとされている。我が国では古くは「もち米」を食していたとされるが、「もち米」のおこわを食べる場合、比較的粘り気があるので握って手で食した。「うるち米」の場合、比較的粘り気が少ない。したがって箸のほうが食べやすい。そういった米事情により、飛鳥時代から奈良時代頃に、畿内の都では、米の調理方法に大きな変化があった。甑による「蒸す」方法から、鍋・釜による「炊く」方法へと、序々に移行していった。発掘調査で出土する土器にも「甑」から「鍋」への変遷がうかがえる。
 古墳時代、土師器・須恵器の形の種類は少なかったが、七世紀以降に、皿の出現、蓋の消滅・出現、杯の身と蓋の逆転など、変化の兆しが現れる。食器の種類が最も豊富となる奈良時代の八世紀には、都では杯、椀、鉢、皿、高坏が、土師器・須恵器でかなりの種類に細分できるほどの多彩さを呈する(図46)。
 
図46 都の土器と農村の土器
図46 都の土器と農村の土器

 生産・収穫され、税として各地に運ばれ、いずこかの器に盛られたであろう豊前地域の食材は、木簡や史資料から、その一端を垣間見ることができる(図47・表13)。
 
図47 木簡(鴻臚館跡SK-57出土)
図47 木簡(鴻臚館跡SK-57出土)

表13 古代の史資料に見える豊前地方の食物
表13 古代の史資料に見える豊前地方の食物