古代の戸籍や計帳(課税のための台帳)には、「郷戸(ごうこ)」と「房戸(ぼうこ)」が見える。ほとんどの農民の「一戸」とは、直系親、傍系親、隷属人などで構成された「郷戸」と称する大家族であった。つまり、郷戸・房戸とは、戸の単位で、一戸とは、建物一棟のことではない。「郷戸」は二〇から三〇人前後の大家族。「房戸」は郷戸を構成している一〇人前後の家族。戸の研究は「郷戸実態説」、「郷戸擬制説」の両者があって、結論は出ていない。「郷戸実態説」は、当時の家族を反映したもので、実態に近いとする説。「郷戸擬制説」は、戸籍に記されている戸は、家族の擬制であるとする説である。豊前地方の古代集落の様相を考える重要な資料に『正倉院文書』がある。この中の大宝二年(七〇二)戸籍などから、家族の様子、構成状況がある程度推定される。例えば、豊前国仲津郡丁里の「平麻呂」の戸籍は一五人の構成員が記されている。大宝二年(七〇二)豊前国仲津郡丁里戸籍残簡の比定地に程近い竹並横穴墓群の報告書で、横穴墓から古代家族の復元が行われている。報告書によれば、一つ一つの横穴墓を律令制の「房戸」に、墓道を単位とした複数の横穴墓のひとまとまりを「郷戸」に比定している(竹並遺跡調査会『竹並遺跡 横穴墓』寧楽社、一九七九)。