当時の行政は律(りつ)と令(りょう)という法律にのっとり執り行われた。律令制度とは、律(刑法)と令(行政法)により国を治める制度である。律令国家の財政を維持したのは租税制度であった。人々は、国・郡・里(郷)という行政区分によって戸籍に登録され、戸籍に基づき「口分田(くぶんでん)」という耕地が貸しつけられた。租(そ)・庸(よう)(労役)・調(ちょう)(地方の産物)・雑徭(ぞうよう)などの重税と兵役が課せられた。国司によって計帳がつくられた。租・庸・調のうち、庸と調の課税台帳である「計帳」には、家族数・年齢などを記し、諸国の公印が押され、毎年八月末までに政府に送られた。調は男が負担し、各地方により一〇月から一二月末までに政府へと納められた。
中央の平城京内には多くの工房があった。中央政府は直営工房で技術者を集めて、金属製品、石製品、漆製品、木製品が生産され、交易された。九州の大宰府では、来木西工房、蔵司前面域工房、回廊西南隅工房などの工房が発掘調査で確認されている。
租税は国や郡の管理体制の下で、最末端の里長(郷長)によって取り立てられた。「竈(かまど)には 火気ふき立てず、甑には……楚取る 里長が声は 寝屋戸まで 来立ち呼ばひぬ……」と『万葉集』にある山上憶良の「貧窮問答歌」のような、里長が民から税を取り立てている情景に近い、過酷な暮らしの時代であったとされる。地方の海岸部集落では、海産物・塩など、山間部集落では布類・油類・木材、金属製品など、そして穀類が収穫・生産されたと考えられる。
しかし、こうした税に対し厳しさから逃亡してしまう農民も少なくなかった。他国で有力者の庇護(ひご)を受けようとし、逃亡という手段で課を逃れる者が増加する。律令国家の存在基盤を揺るがすこととなる。