瓦を焼いた窯には、「登窯(のぼりがま)」と「平窯(ひらがま)」の二種類があった。飛鳥寺創建時の瓦窯跡は、飛鳥寺の南東側丘陵部分に花崗岩の地盤を刳(く)り貫き構築されている。床面は階段状を呈するトンネル状の登窯である。初期の瓦窯は須恵器窯の系譜に連なる地下式登窯である。宮殿や官衙(かんが)など、大量の瓦が必要となる八世紀頃に、より熱効率の良い床面が水平で、「ロストル」(火の通る溝)のある「平窯」が採用された。ロストル式平窯は焼成室の床下に炎がよく通るように数条の火道を構築したもの。窯も時代とともに変遷が見られる。この平窯は焚き口からの瓦の出し入れが簡便で普及した。この変遷は生瓦の出し入れの容易さが求められたことにある。旧来の「登窯」から「平窯」へと、各地で窯の構造が変化していった(図58)。しかしながら、瓦窯の変遷は一様ではなかったようで、大宰府政庁では平安時代に至っても登窯が使用されている。