土器製塩では、まず塩分濃度の高い海水をあらかじめ準備した。この海水を土器に入れ煮詰めて塩が製造された。「藻塩焼(もしおや)き」という製塩は、まず焼いた海藻の灰を海水で溶かし、続いて溶かした灰を土器などで煮詰めるという製塩方法であった。八世紀は製塩方法が大きく変革された時期であった。土器製塩から塩田・大型煎熬(せんごう)容器による製塩へと技術改革が促進された。筑前地方では、福岡市・海の中道遺跡で、八世紀後半から一一世紀にかけての製塩関連遺構・遺物が確認されている。竪穴住居跡、製塩土器、釣り針、中国・越州窯系の青磁、銅製帯金具、皇朝十二銭などが出土している。一般漁業集落には見られない遺物から、津厨(みくりや)(大宰府の付属機関。役人・外国使節への料理に使う海産物調達・加工を担当)であったとする見解がある。豊前国は『延喜式』には塩の貢納国として名があがっていない。しかし、「塩漬年魚(しおづけねんぎょ)」が中男(ちゅうなん)作物として貢納されている。塩を使った加工品があるから製塩作業は当然行われていたと想像される。豊前地方の奈良・平安期遺跡では、築城郡の赤幡森ヶ坪遺跡で、一〇〇〇点を越す大量の製塩土器片が出土している。行橋市の西部で平成九年度に発掘調査された高来井正丸(たかくいしょまる)遺跡では、若干量ではあるが、製塩土器が出土している。集落内において使用された塩か、あるいは、何処(どこ)からかもたらされた塩の集散地的な集落だったのであろうか。