高来井正丸遺跡

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 県営圃場(ほじょう)整備事業椿市(つばきいち)地区の工事に先立ち、平成九年度に発掘調査が行われた。調査面積は八六〇〇平方メートル。弥生時代から近世にかけての複合遺跡である。主体は奈良・平安時代の集落跡と、鎌倉時代の集落跡。確認された主な遺構・遺物は次のとおり。
 
 弥生時代 貯蔵穴二基/弥生土器/掘立柱建物跡二軒/弥生土器
 古墳時代 竪穴住居跡二軒/土師器、須恵器/掘立柱建物跡一軒/土師器、須恵器
 奈良・平安時代 掘立柱建物跡一九軒以上/土師器 須恵器、製塩土器 石帯(丸鞆)
 鎌倉時代 掘立柱建物跡一五軒以上 井戸三基 墳墓二基/青磁、白磁、石鍋、砥石、烏帽子、刀子、鉄釘、
 その他 溝、土坑、柱穴、包含層/土師器、須恵器、青磁、白磁、瓦、瓦器、黒色土器、近世陶磁器
 
 奈良・平安時代の掘立柱建物跡が比較的多く検出されている。奈良・平安時代の掘立柱建物跡の構造は、二間×三間のものが多く、約二〇軒が確認されている。掘立柱建物跡の柱穴から製塩土器片が出土している。石帯(せきたい)は調査区内の北西にある谷部包含層より、遺構検出時に出土した。淡緑白色を呈する蛇紋岩(じゃもんがん)製の丸鞆(まるとも)の石帯で、長さ四・五センチメートル、幅二・八センチメートル、厚さ〇・八センチメートルを測る。全面的に鏡面状に磨かれ、裏面には潜(くぐ)り穴を三ヵ所に設けている。
 豊前国京都郡には、諫山郷、本山郷、刈田郷、高来(たかく)郷の四郷があった(『和名抄』)。高来井正丸遺跡は、京都郡の四郷の一つ「高来郷」の中に位置したと考えられる。椿市廃寺の南西五〇〇メートル、豊前国府須磨園(すまぞの)地区説のある須磨園地区の西側九〇〇メートルの丘陵上に立地。標高三〇から三五メートル前後部分の遺構が調査された。石帯が出土したことが特筆され、一般的な班田集落とは異なる位置付けの遺跡である。これら古代寺院、国府推定地を望む立地や、石帯の出土などから、この高来郷の地域を管理・統括していた役人層の居宅あるいは、集積地的役割を果たしていた可能性をもつ遺跡である(写真29)。
 石帯の出土から高来郷の集落遺跡では、通常の集落とは異なる様相がみられる。
 
写真29 高来井正丸遺跡(西側上空より)
写真29 高来井正丸遺跡(西側上空より)