生活空間と埋葬空間を分離することは、七世紀末から八世紀初頭の藤原京(六九四~七一〇年)の時代に始まるとされる。類似した規定が『大宝令』にもあるが、『大宝令』を修正した『養老令』にある『令集解(りょうのしゅうげ)』の中に『喪葬令(そうそうれい)』に主として官人の墓についての規定が記載されている。葬列規模、葬具種類、墓を造ることが可能な階層、階層ごとに墓の規模を変えることなどの指示が記されている。この養老律令の中の全十七条からなる『喪葬令』には、例えば次のような規定がある。
「凡皇都及道路側近並不レ得二葬理一」
(読み下し)「凡そ皇都(こうと)及び道路の側近は、並に葬り埋むること得じ」(井上光貞ほか校訂『律令 日本思想体系3』岩波書店、一九七六)
都城をケガレから守るための措置で、もっぱら都城の内部や公道付近に墓を作ることは禁止されていた。埋葬地は当時の郊外が選ばれた。皇族や貴人の墓は郊外に作られていたのである。この京外に埋葬地を営む制度は、中国の唐の制度を倣ったものとされる。
藤原京周辺では、南方の檜熊(ひのくま)(天武・持統天皇・文武天皇)・越智(おち)(河島皇子)・真弓(まゆみ)(草壁皇子)・佐田(さだ)の丘陵地帯に天皇・貴人の墳墓が営まれている。
平城京周辺では、京の北側に天皇・貴人の墓所、京の東や西の丘陵に官人の墓所が営まれている。墓誌が出土したことで著名な太安万侶(おおのやすまろ)の墓は京の東側の丘陵で発見されている。
平安京周辺では、南東側の鳥辺野(とりべの)、西側の化野(あだしの)、北側の蓮台野(れんだいの)などに蟇所が設けられた。京内での造墓禁止があったものの、遷都後に、もとの京内に墓を作った例も見受けられる。一方、一般庶民の墓所の詳細はよくわかっていない。飢饉や疫病流行時に、亡骸(なきがら)は都城周辺の山野・河川・河原に遺棄(いき)されたようである。
畿内の都の影響が、九州の大宰府にも見受けられる。奈良時代において、大宰府の集落のあった平野部には墓が発見されておらず、大宰府の周辺丘陵地帯に葬送地が点々と営まれている。しかし、大宰府条坊復元案の郭の内部において、墓地の発見例がないわけでもない(図60)。