火葬墓の普及-古墳から火葬墓へ

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 火葬の普及は、薄葬(はくそう)を旨とする仏教思想の受容によるものとされている。歴史時代の墳墓は、古墳時代の墳墓と比べると形態の変化が大きい。火葬墓は火葬の場に設置される場合と、火葬の場とは別の場に設置される場合とあった。火葬には骨を拾う行為が伴う。火葬骨は、壺や櫃(ひつ)に入れ埋納された(図61)。骨を納めた壺である「蔵骨器(ぞうこつき)」は須恵器などの陶器が主体であったが、金属製の容器もあった。身分の高い人物は、蔵骨器に骨と炭と金属製の墓誌(ぼし)(名前や生没年を刻んだ板)が納められたりした。
 
図61 火葬骨の埋納方法(峯火葬墓)
図61 火葬骨の埋納方法(峯火葬墓)

 仏教系火葬の初見は、『続日本紀』文武天皇四年(七〇〇)三月条に見える、僧道昭(どうしょう)(六二九~七〇〇年)が栗原(くりはら)(現・奈良県明日香村栗原)の地で荼毘(だび)に付されたという記事である。天下の火葬はここに始まるという記事である。なお遺灰は風に吹かれ行方がわからなくなってしまったと記されている。
 しかし、これをさかのぼる火葬例が若干見られる。遺体を焼き埋葬された墳墓の調査事例は、大阪府堺市のカマド塚などが知られている。
 天皇では、大宝二年(七〇二)に持統天皇が初めて火葬され、続いて、文武天皇が慶雲四年(七〇七)に火葬されている。火葬の風習は奈良時代に僧・貴族・役人に広がった。庶民への浸透は平安時代に入ってからとされる。火葬の風習の受容に伴い、火葬や土葬の埋葬が主体となっていった。しかしながら、火葬という新たなる葬送の風習は、旧来の古墳と不可分の関係の中で浸透したようである。古墳時代の横穴式石室を再利用し、火葬骨を石室へ追葬(ついそう)している例もある。行橋市の竹並遺跡の一部では、奈良時代の八世紀まで横穴墓に埋葬が継続されている。
 
図62 穴ケ葉山古墳群と火葬墓
図62 穴ケ葉山古墳群と火葬墓(●印)