祭祀遺物発見地

701 ~ 702 / 761ページ
 住居や古墳に関連する祭祀以外に単独で祭祀遺物が発見される場合がある。それらのなかには古社の境内地や、特定場所で神祭りののちに埋納されたと考えられる事例がある。これらは祭祀遺跡とされているものである。さきの二者にくらべると、このような事例がはるかに多い。京都郡苅田町馬場で陶馬一・手捏(てづくね)土器二、同新津(あらつ)堀の口で陶馬一、同山口で陶馬一、同松山中洲で陶馬一、同白河神護で滑石勾玉一、豊津町二月谷梅林で手捏土器多数・土師器高杯二・同坩二(穿孔)、同町上久保五反田で蛇紋岩模造鏡一などを出土した遺跡がある。
 行橋市域でも稲童で土馬一、福富で滑石勾玉一、天生田(あもうだ)矢萩で陶質子持勾玉一などが発見されている。
 
写真31 祭祀遺物・陶馬
写真31 祭祀遺物・陶馬

 古墳時代の祭祀には現世の人々の生活や生産活動に伴い神の加護を願う住居・集落の祭祀、さらに古墳の被葬者と合わせて祖霊を祭る祭祀があった。後者は神祭りと葬祭が未分化状態の内容を示しているが、やがて古代に移行してゆく過程で神社が出現して葬祭分化は明確になった。祭祀遺跡は神の常住する場所、必要に応じて神が天降(あまくだ)ってくる場所の別はあるが、神祭りが行われたところであり、また祭具が一括埋納された遺跡も含まれる。『肥前国風土記』佐嘉郡の条には、
 「佐嘉川の川上に荒ぶる神ありて行旅の人に殺生をなした。そこで下田村の土を取って人形、馬形を作ってこの神を祀ったところ、加納して応(こた)え和(なご)んだ」
と伝えられている。旅人にふりかかる災(わざわ)いを土製模造品に転化させて、旅行者の無事を祈る祓(はら)い行事の具とする風習は、古代から現代にまで継承されている。