大宰府から豊前国府に至る豊前を東西に横断する豊前路に位置している。現在香春一ノ岳南麓に在るが、もとは一ノ岳山頂にあった。しかしセメント用の石灰採掘のため遷座(せんざ)したのである。『延喜式』に見える三座神は一、二、三殿に分祀されている。『豊前国風土記』逸文(いつぶん)に見える新羅国から渡来してこの地に住んだと伝える神が辛国息長大姫大目命にあたるとされる。また同書には二ノ岳に銅を産出したと伝え、『延喜式』(主税式)に鋳銭の原料である銅と鉛が長門と豊前から産出したとあることとも照合される。一ノ岳の南麓に近い天台寺跡(田川市伊田)の創建古瓦に、みごとな新羅系意匠の軒先瓦が採用されて、七世紀末頃に比定されていることとも合わせて、韓国系渡来氏族の奉ずる神が祀られたことは疑いない。香春岳の採銅にかかわる鉱業神的性格が推察される。香春社の宮司職は赤染(あかぞめ)氏によって相伝されている。天平勝宝二年(七五〇)赤染造(みやつこ)広足ら二四人に常世連(とこよのむらじ)の姓を賜わっており、常世連は『新撰姓氏録』(河内諸蕃條)によって渡来系氏族であることが知られる。延暦二二年(八〇三)最澄は入唐に際して筑紫滞在中、香春に詣でて渡海の無事を祈った。その後も続く最澄との関係によって香春岳は荒廃から救われ、天災や疫病などの災害のたびに、郡司や百姓は香春神に祈願して感応を蒙むっている。承和四年(八三七)大宰府は香春神を官社に列せられんことを政府に請い聴せられた。