三三年一度の式年造営

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 宇佐宮では元慶四年(八八〇)に三三年に一度、正殿(本宮・上宮)とその付属の建物を新たに立て替える式年造営(しきねんぞうえい)が定められたという(宇佐神宮式年御造営記『宇佐神宮史 史料編』巻二)。寛平元年(八八九)には、豊前権掾八多有臣(ごんのじょうはたのありおみ)を専当(せんとう)として、豊前一国で宇佐宮を造営している(宮寺縁事抄宇佐四『石清水文書』五)。こうして三三年一度の式年造営は、一〇世紀末の長徳から長保の遷宮(せんぐう)にかけて以降、三三年の周期で神殿がくりかえし造替(ぞうたい)されるようになった(井上聡「〈宇佐宮仮殿地判指図〉に関する基礎的考察」『鎌倉期社会と史料論』二〇〇二)。
 造替の具体的なあり方は、前回の正殿遷御(せんぎょ)から二七年目に正殿の北方、すなわち菱形池の北側の地に、正殿と同じ配置と規模をなす仮殿(かりどの)(ただし黒木)の造営が開始され、三〇年目に完成した仮殿へ正殿から御験(みしるし)(御神体)を移し、旧正殿を解体して新正殿の造営に着手し、三三年目に新正殿が完成すると、仮殿の御験を再び新正殿に戻して造営を終えるのである。
 治安二年(一〇二二)六月二七日付けの太政官符(だいじょうかんぷ)によると(宮寺縁事抄宇佐四『石清水文書』五)、豊後国では同国志止止山(しとどさん)の材木で正宮(正殿)の仮殿を造営し、豊前国では神原(かみはら)から切り出した材木で、正宮造営を行っていた。大宰府の指揮下で、両国が宇佐宮造営に深くかかわっていたことがわかる。
 保元元年(一一五六)当時、建物ごとの造営分担と人夫食米の費用が、大宰府管内の九ヵ国に課せられていた。この体制がいつ頃から始まったかは不詳である。豊前国の場合、二蓋南楼一宇・勅使屋(ちょくしや)一宇・脇殿二宇各三間・北大門一宇・石畳・西中門一宇・外院(げいん)玉垣四〇間・簾垣百八〇間の造営と、人夫食米六六〇石四斗を負担していた(『続左丞抄』第三)。二蓋南楼は南中楼門、脇殿二宇とは一御殿の西にある春日社(天児屋根命(あめのこやねのみこと))と、三御殿の東に位置する住吉社(底筒男命(そこつつのおのみこと)・中(なか)筒男命・表(うわ)筒男命)であり、勅使屋は南中楼門の南にあった。後の国司屋と推定される。恐らく、勅使の代わりに国司が代参するようになり、建物の名称が変更したのであろう。
 保元元年に、豊前国内では宇佐宮正殿の造営用材を伐採する杣山(そまやま)が設定されていた。一御殿が豊前国築城郡桑田滋野河内二瀬、二御殿が同国上毛郡畠河一瀬、三御殿が同国下毛郡遷替(うすぎ)河内焼志瀬一瀬である(『続左丞抄』第三)。
 正式に用材の伐採を始める前には、杣始(そまはじめ)の式が行われていた。杣山の近くに、一宇三間の東向きの正殿と南向きの若宮を造り、造営に関わる役人や宇佐宮の神官・大工などが参列し、大工を召して斧などとともに霊木を清め、霊木に斧を伐(う)ち始めて木の細片を削り取る。この儀式が終わった後に、杣山の材木が本格的に切り出され、宇佐宮に納められていた。年未詳ではあるが、一御殿の杣始の場所として築城郡桑田河内二瀬が確認できる(永弘文書二四〇号『大分県史料』三巻)。また、宇佐宮寺造営并神事法会再興日記(『大分県史料』三〇巻)には、大内盛見(もりみ)による宇佐宮造営の杣始の場所が知られる。応永二五年(一四一八)八月二七日の一御殿の杣始は築城郡伝法寺河内の御堂所の楠のもと、同二七年八月二五日の二御殿は上毛郡畠河内一瀬帰山道別の大柳、同年八月二八日の三御殿は豊前国下毛郡遷替河内一瀬伊乃倉の前の楠で実施されている。
 以上のように杣山は、一御殿が築城郡(築城町)、二御殿が上毛郡(豊前市)、三御殿が下毛郡(大分県三光村)に設定されていた。
 
写真34 応永年間の宇佐宮古図
写真34 応永年間の宇佐宮古図