御炊殿(おいどの)(下宮)は上宮の西側の麓(ふもと)に位置し、弘仁年中(八一〇~二四)に造営されたという。下宮本殿(一・二・三御殿)の祭神と社殿の配置は上宮本殿と同一であるが、社殿が流造(ながれづくり)である点で大きく異なっている。『八幡宇佐宮御託宣集』巻六(以下『託宣集』と略す)によると、五節句はこの御殿で行われ、御社の傍らに竈があってお供えを炊(かし)ぎ奉る故に、御炊殿と名付けられたといわれている。下宮の造替も上宮と同じく、菱形池の北側(上宮仮殿の西側)に仮殿を造営して御験を遷座し、旧下宮を解体して新たに下宮の造営に着手し、完成すると御験が仮殿から下宮に還座(かんざ)していた。
御炊殿一院の造営については、往古より破壊のたびごとに、豊前の国役として造営することになっていたが、国衙(こくが)は四〇余年の間造営を怠ったため、宇佐宮は当国の散在常見名田(さんざいつねみみょうでん)を永く不輸(ふゆ)の神領として御炊殿造営料所としたい旨を後白河院庁(ごしらかわいんのちょう)に訴え、安元元年(一一七五)に院庁の下文を得て認められている(「八幡宇佐宮神領大鏡」『大分県史料』二四巻)。宇佐大宮司宇佐公有下文(きんありくだしぶみ)(到津文書七六号『大分県史料』一巻)によると、豊前国の常見名田は御炊殿造営料所として、国に一部の税を納める半不輸から国に税を納めない不輸の神領となり、郡ごとに一括されて上毛庄・下毛庄・築城庄・京都庄・田河庄・規矩庄・宇佐庄と郡名表示されていた。