神輿の造営と行幸会

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 築城郡仲東郷城井浦(築城町)の山は、宇佐宮の三三ヵ年一度の式年造営と六ヵ年一度の御装束御輿料(ごしょうぞくみこしりょう)の杣山であった(「八幡宇佐宮御神領大鏡」『大分県史料』二四巻)。この神輿は八幡神(一御殿)を乗せるものであり、二・三御殿の神輿も、それぞれ指定された杣山の材木で造られていたと推定される。
 神輿の発祥の地は宇佐といわれている。天平勝宝元年(七四九)一二月二七日に八幡神が東大寺大仏を拝する際、紫の御輿で行幸している(『続日本紀』)。さらに養老四年(七二〇)、隼人の反乱に際し、豊前守宇奴首男人(ぶぜんのかみうののおびとおひと)が八幡神の遠征に必要な御輿を造進したと伝えている(『託宣集』巻六)。
 六年一度の神輿の造替は、宇佐宮行幸会(ぎょうこうえ)と密接な関係がある。これは卯年と酉年の六ヵ年に一度、宇佐宮三所の御験と御装束が更新(こうしん)され、八幡神出現にゆかりのある神社を巡幸する特殊神事である。始行年代については諸説あるが、弘仁一四年(八二三)が最も有力視されている(伊藤勇人『行幸会道』大分県教育委員会、一九八一)。まず、下毛郡の三角池(みすみのいけ)(中津市大貞・薦神社)に自生する真薦(まこも)を刈り取り、大神氏が宇佐宮下宮の鵜羽屋(うばや)(産屋)で七日間籠もり、薦枕の御験と神服を調製する。長保五年(一〇〇三)の史料では(「宮寺縁事抄」宇佐四『石清水文書』五)、新御験は新造された神輿に乗せられ、豊前国の鷹居社・瀬社・逆井泉(酒井泉社)・乙比咩(乙咩社)・爪搔社(妻垣社)・小山田(小山田社)・安心院・大根川(大根川社)の八ヵ所と豊後国の田布江(田笛社)・辛川(からかわ)(辛川社)の二ヵ所を巡行していた。新しい御験が上宮に遷(うつ)される前に、上宮の旧御験は旧神輿に乗せられて下宮に遷され、下宮の旧御験は旧神輿とともに奈多社(大分県杵築市)へ遷され、奈多社のものは海に流されていた。行幸会に必要な経費は、豊前国・豊後国・肥前国・肥後国・筑前国・日向国などが負担していた(「宮寺縁事抄」宇佐四『石清水文書』五)。神輿を納める神輿宿(やど)は、上宮が西大門の北側(平安末期の「上宮仮殿地判指図」、宇佐神宮所蔵)、下宮が一御殿の西側(「応永の指図」など)にそれぞれ描かれている。