宇佐宮放生会(ほうじょうえ)について、『託宣集』(巻五)や「八幡宇佐宮放生会縁起」(北和介文書第三巻一号『大分県史料』二巻)などには、次のように記載されている。養老三年(七一九)、九州南部の日向(ひゅうが)・大隅の隼人(はやと)が反乱を起こし、なかなか平定できなかった。翌年、朝廷は勅使として豊前国の国司宇奴首男人を宇佐の八幡神(小山田社)のもとに派遣し、戦勝祈願をすると、八幡神は自ら出陣すると託宣(たくせん)し、神軍を率いて遠征した。隼人は七ヵ所の城に籠もって抵抗したため、神軍は一計を案じ、籠城している隼人の前で面白おかしく傀儡子(くぐつ)の舞を演じさせ、隼人が油断して城から出てきたところを攻撃して降伏させた。宇佐に帰った八幡神はこの戦いで多くの隼人を殺したことを悔い、仏に救いを求め、毎年八月に放生会を行うようになった。その始行年代は、養老四年(七二〇)、同六年、神亀元年(七二四)、天平一六年(七四四)など諸説がある。
八月一日から一四日まで放生会の準備を行い、八月一四日に八幡神などが和間浜(わまはま)の頓宮(とんぐう)に行幸、そこで細男(せいのう)の舞や万歳楽(まんざいらく)などが行われた。一五日に豊後国と日向国の対抗相撲もあり、やがて八幡神などが浮殿(うきどの)に遷座し、その前で船上から傀儡子の舞などが奉納され、放生供養の中、浮殿から蜷を海に流す最も重要な儀式が執り行われた。その後、八幡神などは頓宮に戻り、さまざまな舞楽(ぶがく)が行われた後、宇佐宮へと還御(かんぎょ)した。