細男試楽(しがく)とは人間が舞う細男の舞であり、神功皇后の故事にちなむ芸能である。神功皇后が三韓に向かう時、干珠(かんじゅ)と満珠(まんじゅ)の二つの珠(たま)を海神から借りなければならなかったが、その時に白髪の老人(住吉大神)が来て、安曇磯良(あずみのいそら)(志賀海神社の祭神)の協力が必要となり、彼を呼び出すために自ら舞ったところ、海中から磯良が舞人の姿となり浄衣(じょうえ)を着て、羯鼓(かっこ)を首からかけ袖で顔を覆(おお)い「青農(せいのう)」という舞を舞ったという(中山重記「宇佐宮細男考」『豊日史学』一五九・一六〇・一六一号、一九七三)。
細男試楽の実態は、一三世紀後半の様子を伝える『宇佐宮斎会式(さいえしき)』(以下『斎会式』と略す)の放生会の項に詳しく見える。毎年八月一日の夜から一五日まで細男試楽が行われ、その経費は弁分の負担であり、夜別、酒三斗三升と焼米三斗三升を貢納していた。一日から一二日まで、宇佐宮上宮の北側麓の大弐堂(だいにどう)(現在の絵馬堂付近)の南庭で細男の舞が奉納されていた。御杖人(みつえびと)は東座で西向き、小舎人所本司(こどねりどころほんし)らは西座で東向き、細男の鼓打と笛吹は北座で南向きに座し、御杖人が南東の菱形池の端に設けた棚の上に上分(じょうぶん)(酒三升と焼米三升)を備えて祝詞を申した後、細男の舞を南東の方向に位置する上宮に向かって演じ、その後、隼人の霊を祀る百太夫殿(ひゃくたいふでん)(現在の百体社、宇佐市南宇佐)に行き、同じ舞を奉納していた。一三日の夜は一渡と称し、大宮(上宮)・若宮(大宮の西側)・下宮・大弐堂・女禰宜(めねぎ/にょねぎ)(黒男社付近に所在)・宮司・百太夫殿で舞い、一四日は村渡と称して小舎所行事の本司を前にして、一三日と同じ七ヵ所で舞っていた。一五日細男衆も和間の浜に向かい、頓宮に着くと所々で細男の舞を舞った。
京築地域が担当した細男の舞は、上毛弁分か八月八日、角田弁分と大野弁分が同九日、津隈弁分が勾金(まがりかね)弁分(田川郡)とともに同一〇日に奉納していた(『斎会式』)。
放生会では人間が舞う細男の舞のほかに、傀儡子人形(あやつり人形)による細男の舞も奉納されていた。この細男の舞は一般的に「くわしおのまい」と言われているが、本来は「せいのうのまい」と訓読していたと考えられる。この舞は、古表社(こひょうしゃ)(福岡県吉富町小犬丸)と古要社(かつては古表社と呼称、大分県中津市伊藤田)の二社が担当していた。両社とも息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)・虚空津(そらつ)比売命を祭神とする。
八月一五日に、上毛郡と下毛郡の傀儡子船二艘が和間の浜に向かい、八幡神などが鎮座する浮殿の御前で(宇佐市松崎)、船上から傀儡子人形による細男の舞と神相撲を演じ、その後、浮殿西側に仮設された、女禰宜屋形(やかた)の前でも舞っていた(『斎会式』)。